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男は不安定

たとえば、すきな男の子ひとりに、「かわいいくておもしろいな」と思ってもらえればそれだけでいいなと思う。

べつに大企業に勤めなくても、ちいさな田舎の駅員でもいいから、とりあえずひとりでもずっとそう思ってくれるひとがいれば。

そして、じぶんもその男の子のことをおなじように、ずっと、「かわいくておもしろいな」と思えるといい。

これまでわたしは、それは女の子のともだちでじゅうぶんだと思っていたけど、いまはじゅうぶんじゃなくなった。

 

なんというか、じぶんの人生に期待していたところがあったなあとおもって、反省しているところ。10分ちょっとの面接でばつをもらうと、じぶんのことをいいように勘違いしていた恥ずかしいやつだと言われているような気がして、くやしいというより、自己嫌悪感がすごい。

世間的におもしろくなくても、かわいくなくても、だれかひとりだけでも、いいなあっておもってくれるひとがいれば、それでいいんだなあとおもう。そういうひとがいたら、面接官につまんない人間印つけられてもがんばれるはず。

 

きょうは、これから先何十年もまだまだ人生があるとおもうとつらくてしかたなかった。絶望的できもちわるくなった。もうあしたに、地球滅亡してしまえとおもうくらい。

でもそれは、この先の人生に期待しているからそうおもうみたい。だからもうすべてあきらめることにした。ぜんぶあきらめて生きるのがいいみたい。

 

そうすると、本格的に就活もどうでもよくなって、あしたの試験も、あさっての面接も、もう行くのすらいやになってくる。だからそれはそれでまちがっている気がしてくるし、どうしたらいいのかわからない。じぶんをだますのがへたくそだなあとおもってる。

 

ファンタスティックな夜だぜ 一人考えこんでたって 
何もでないんだったらやめちまって 遊ぶなり寝るなりする
不安でスティックが折れたぜ 夢は考えこんでたって 
何も出ないさ 別に仲間なんて 一人か二人いればたくさんだ

ゆらゆら帝国/男は不安定

 

カルピスの棒

さいきんカルピスが主食なんじゃないかというくらい、カルピスを飲む。原液をみずで割って、濃いめにして飲むのがおいしい。

混ぜる棒も、それ用のかわいいガラスでできたやつをつかっていたのだけど、さいきんになって割ってしまった。先のほうにガラスでできたちいさいりんごがついていて、かわいくて、とても気に入っていた。それに、かき混ぜるたびにガラスのコップとぶつかって、かちかちいい音がなった。その棒はたしか何本かセットで買ったやつで、ほかにもすいかやいちごがあった。でも、かわいい見た目のとおりとても割れやすく、他のはもうずいぶん前に割ってしまっていた。最後まで生きのこったのがりんごで、もうそれも割った。

代わりの棒がもうないので、指で混ぜようとしたりする。だけど、コップの底は人差し指ではとどかないほど深い。とどかないくせにぷりぷり指を動かしているときはいつも、小学生のときの学校にあった深いプールを思いだす。プールの底に足がとどかなくて、必死に顎を突き出しながら、足をぷりぷりしていた小学生のじぶん。

しかたなく、ステンレスのスプーンやフォーク、おはしの片方で混ぜるけど、とくにフォークはガラスのコップと先の部分があたっていやな音がなるので、つかいたくない。おはしは、木の味がカルピスにしみそうでだめ。だからもう混ぜるのをやめた。

飲むときに、まずさいしょに上澄みの、うすいカルピスみずをすこし口に含んで、それを飲み込まないでいったんコップの中に勢いよくもどす。つまり、そのうすいカルピスみずの勢いで混ぜようとしている。きたないけど自分しかしらないことだし、飲むのはじぶんだからだいじょうぶとおもってる。でも、カルピスはそんなんじゃぜんぜん混ざらないもので、だからさいきんはいつもコップの底がべとべとで、洗うときちゃんとみずにつけておかないと落ちなくなった。それに、原液の減りがはやくなってしまった。

カルピスの混ぜる棒を買いに行かなきゃ。

すべての仕事は売春である

徹夜で書き上げたエントリーシートをふくろに入れて郵便局まであるく。ほぼパジャマのかっこにメガネで、それにしてブルーハーツを聴きながらずんずんあるくから、勝手に青春をかんじていて、じぶんでもおもしろいとおもった。

それから帰ってぜいたくに昼寝をした。学校は行くのをわすれてしまった。起きたらもう夜になっていた。

さいきん晩ごはんをたべるとき、つまらないテレビがついているのがすごくいやだ。今日も、リンパ液の流れがどうたらというどうでもいい番組がついていたし、それを両親がいっしょうけんめい見ているのがいやだった。晩ごはんはぜんぶ食べれなくてのこした。

 

へやが散らかっているんだけど、でも、いろんなものが床に落ちているなかでベッドにねころぶのはとても気持ちいいからすき。ちいさいころ、横断歩道の白いところ以外は海になっていると考えちゃうのとおなじかんじがする。

さっき岡崎京子のpinkをひさしぶりに読みなおして、わたしもワニを飼って、いまこのベッドの上からずっとながめていたいということをかんがえてる。

 

 

4月18日(火)

靴がだめになったので、帰りにあたらしいのを買った。それから今日もストッキングをやぶってしまったので、ストッキングも買った。ワイシャツも一枚買い足して、ついでにバイト先に顔をだすかまよって、結局やめて、本屋によって帰った。

 

元気でいるようにすることは、かなり大事だとおもった。このところ、しばらく元気が出なくて、就活関係で人と接するときはもちろん元気にするけど、あとは週一回のゼミで先生と友人何人かと話すくらいで、それ以外はだれにも会わなかった。家に帰って親に話しかけられてもあいまいな返事ばかりで、ほとんどなにもしゃべらず、ごはんもおいしそうに食べないし、ずっと自分の部屋にこもっていた。いちいち今日はどの会社説明会に行ってきたとか、どこのは通った、落ちた、とか言うのがけっこうしんどかった。

家の中で笑ったりするのは、毎週木曜日のハライチのラジオを聞いているときだけだった。ハライチのラジオは救世主だったので、生で聞いてかつ、いつタイムフリーを使ってしまうか(一回しか聞けないから)をかなり慎重に考えているくらいだった。

 

自分のなかにある感情の入れ物がいっぱいになっていて、表面張力でぎりぎりこぼれないというかんじで、なにかの拍子に一滴でも水が入るとあふれ出し、泣いてしまうじょうたい。

先日はその一滴が、朝家を出る前に、父に「家のコピー機をなおしてほしい」とたのんだときの父の態度だった。きのうは平日だったけれど、振休で家にいるというので、「コピー機の接触が悪いのをなおしておいてほしい」とたのんだ。そうしたら、一回で聞き取ってもらえなくて、かなりイライラしたいやなかんじで「はあ?なに?」と聞き返されてしまった(今となっては、ずっと生きた心地のしない、反応のうすい娘に気をつかうのもいやになっていたんだとおもうけど)。

こらえてもう一度言いなおすと、父は「あーはい、それならすぐ直せるからやっとくよ」と言った。じつはこの何日か前にもいちど、コピー機がおかしいということを父に話していたので、簡単なんだったらこないだ言ったときになおしておいてよ、とおもった。

わたしはその前日、このコピー機がこわれていたせいで、深夜3時にコンビニまで走ったのだ。まあそのときは別に、直してほしい、とまでは伝えていなかったから自分がわるいのだけど。

 

そこから、相手が真意をわかってくれないこと(面接やエントリーシートで伝えたいことがうまく伝えられないなど)で溜まりに溜まっていたくやしさがあふれ出してしまって、最寄り駅まで歩く途中にがまんできなくなった。なんか変な音楽を聴いていたんだけど、それでもだめで、歩きながら泣いた。

基本的に最後の一滴はかなりくだらない出来事だ。弱いようにおもえて笑ってしまうけど、このあいだまではほんとうにそんなかんじだった。

その一滴は、やさしい言葉とか態度のときもあって、説明会のときの人事の人の締めの言葉だったりとか、吉本ばななの文章だったりとかもした。3日連続くらい、キッチンをぱらぱら読んで、だいすきだ~と思って涙をこぼしていたこともあった。

 

今日も、そんなかんじで家を出て、朝から選考に行った。お昼前におわってケータイを見たら、父から「がんばりすぎるなよ~」とラインが来ていて、はっとした。

こんなに思い詰めていてもなにも良いことはないし、腫れものみたいになって、まわりに迷惑をかけるだけだということにやっと気がついた。

 

わたしは、こういうところがかなり要領わるい。自分で自分を、自ら好んで追い詰めてバカだとおもう。ストイックといったらそうなんだけど、だんだんとストイックでいることに満足感を得てしまうのだ。浪人して、受験に失敗した理由もそれだった。一年間、いろんなことをがまんして勉強をがんばっているつもりだったけれど、実際は「がまんしてがんばる」ということをがんばっていただけで、勉強自体に身を入れていなかったんだなあと、終わってから気づいた。そういう失敗をまたしそうになっていた。

 

ええと、そういうよわよわじまんをしたいのではなくて、キャノン・バード説じゃなくて、ジェームズ・ランゲ説だ、ということを自分に言い聞かせるために書いている。

つらいとおもってると実際つらいし、たのしいことなくなるし、おもしろいことを見落としてしまうよ~ってブログに書いて、自分を励ます変なひと。

 

 

 

ネトストの歌(完)

このあいだ、5年前からネトストしている女の人に、ついにばったり会ってしまった。去年の9月にネトストの話を書いたときに、たぶんもうすぐどこかで会うんじゃないか、と言っていたんだけど、約半年後ほんとうに会った。正確に言うと、わたしが一方的に見つけただけで、たぶん相手の視界には入っていないし、会話もしていないから、会ったというか見た、という感じなんだけど、けっこうな大事件だった。

わたしはその日、映画を見た。エンドロールが流れきって明かりがついて、真ん中の席だったので、まわりよりもすこしゆっくり立ちあがった。そのまま、ロビーのひらけたところに置いてある公開待ち映画のチラシをじっくり見て、面白そうなのを何枚か選び、そのチラシを見ながらふらふらと映画館をあとにしようとした。そのとき、一瞬すれ違った女性が、まちがいなくその人だった。

わたしは前を見ないで歩いていて、人にぶつかる、とおもってあわてて顔を上げたので、ほんとうに一瞬の出来事だったんだけど、ほんとうにもう絶対に、その人だということがなんとなくわかった。わからないけど、完全に、絶対的にわかった。写真はそんなに見たことはなかったけど、わかった。一瞬何が起こったか理解できなくなって、急いで振り返って三度見くらいして、それからしばらくその場に立ちすくんでしまった。映画とかドラマとかでよくあるシーンみたいに、一瞬まわりの音が何も聞こえなくなったような気がした。向こうはもちろんわたしのことなんて一切気にしていなくて、ただ通り過ぎて行っただけだったけれど。

思っていたよりも背が小さかったとか、やっぱりおしゃれだったとかそういう感想よりも、本当に存在していたとかいう変な感動よりも、「やっぱりな」と思った。やっぱり、話したらぜったいにわたしたち合います!という妙な自信が湧き出た。

ここにおいて、ちゃんと弁解させて欲しいのだけど、わたしはその映画館にその人が来ることがあるとか、この映画その人も見そうだなとか、そういうことは全く、一切考えていなかったし、知らなかった。ほんとうにいろんな偶然が重なった、奇跡みたいなものが起こったんだと思う。

 

その人は、わたしがいちばん行きたかった大学に通っていた人で、たしか高校生のときに、ツイッターで大学名と学部で検索して、まずプロフィールに大学名とか学部とか書いている人を見つけて、そのフォローから飛んで、飛んで、飛んで、飛んだ人が入っているサークルのアカウントに飛んで、そのフォロワーから飛んで、飛んで……という感じでその人を見つけた。その行きたかった大学は、今わたしが住んでいるところからだいぶん離れた地方にある大学で、その人は生まれも育ちもそこの人で、大学を卒業してからも、そのままその地方の会社で働いていた。一方、わたしはその行きたかった大学に落ち、自宅から通える別の大学に通っていた。だから、会うことなんて一生かかってもないと思っていた。

ちょうどその日の朝も、その人のツイッターを見ていた。最近はあまり頻繁には見ていなかったから、4、5日前のツイートにすごく納得することが書いてあったのを見つけて、ついでにお気に入りも見て、リンク先の記事をひとつ読んでいた。

その映画館を出てからは、その人に会ったことを引きずって、ぼーっと、何かてきとうに音楽を耳に入れながら、うわのそらのまま家に帰った。そして寝る前に、ベッドの中でもういちどその人のツイッターを見た。そうしたらやっぱり、映画を見たことが書いてあった。その日にわたしが見たのと同じ映画で、わたしが見た次の回のを見ていたようだった。

 

前にも書いたけど、現代においてこんなことは、もしかしたら日常茶飯事なのかもしれない。わたしだってどこかの映画館で誰かに見つけられているのかもしれないし、わたしのSNSを、今日も更新されてない、今日も更新されてない、って毎日確認しているまだ見ぬ人がいるのかもしれない。

見えているものなんてほんの一部でしかなくて、無言の認識の中にほんとうのコミュニケーションは存在していて、結局はぜんぶつながっているのかもしれない。

もうこわいから、わたしは、この人の話はこれでおしまいにする。これから会うことがあっても、顔見知りになることがあっても大丈夫なように、これで終わりにしようと思った。


do-demoii13711371.hatenablog.com

千里の道も一歩からとかいうけど

すべてのことは一つずつやるしかなくて、1をいきなり10にするのは無理なことだとよくわかっているけれど、それがたまにわからなくなる。1を「今すぐに10にしなければ」と急におもうときがあって、あれこれやろうとするんだけどもなぜか何にも手がつかず、ただそわそわそわそわして時間だけが過ぎてゆく。

さいきんそういうことが多い。一つずつ読んで一つずつ書いていくしかないのに、まわりのことを考えてしまうと、どんどんほかにやるべきことが出てきて焦って焦って、けっきょく一日中焦ることしかしていないと気づく。自分はかなり頭がわるいんだろうなあとおもう。頭がいい人は、わたしがそわそわして白い顔であれこれやろうとしているあいだに、1を2に2を3にというぐあいに、どんどん10に近づいていく。そうして、気がつくと1と7くらいの差ができているのだ。

そもそも、人のことを気にするから1を早く10にしなければとおもってしまうのであり、まわりを気にせず自分のペースでやっていけば、「気付いたら10になっていた」というふうに上手くいくものだとおもう。それでも、わかっていてもできない。ほんとうに病気の人みたいに、わからなくなっちゃう日がある。

 

それから、あたり前だけど、自分が大すきなものをもっとすきな人はいて、自分が得意だとおもっていることをもっと上手にできる人もいる。わたしが知らないことを、たくさん知っている人もいる。わたしがやりたいことのそばにいる人だって死ぬほどいるし。わたしは1からのスタートだけど、3からのスタートの人もいれば、もう8とかの人だっているわけで、そういうことを考えてしまうと、またさいしょに書いたところに戻るというわけ。

 

 

晴れてても寒い日

家から駅まで歩くあいだに、左足のパンプスのヒールが、排水溝の蓋の7個に1個くらいある銀のあみあみのところにはまって抜けなくなった。結構あせったけれど、すこし力を入れたら思いのほかすぐに抜けたので、よけいにあせっていた自分が恥ずかしくなって赤面する。そして、だれにも見られていないのに、勝手に恥ずかしがっている自分がまた恥ずかしくて、赤面に拍車がかかる。それなのに、まるで何事もなかったかのようにすかした顔で歩こうとする自分がおもしろくて、笑ってしまう。

就職活動がはじまってスーツを着るようになってから、こんなことを、もう5、6回くらいやっている。ヒールのある靴でその上を歩けば、そのあみあみのどこかの穴にすっぽりはまる可能性があることはわかっているのに、どうしてもそのあみあみの上を歩きたくなってしまう。でも、はまったらはまったであせるし、はまらなかったら、「うぃ〜セーフゥ〜〜ッ…!」と楽しくなるわけでもなく、それはそれでなんだか物足りないように感じる。結局のところ、自分は何がしたいのかわからないし、全くもって無意味だと言い切れる行為だと思う。しかも、きっとこれから選考が進むにつれて、「あみあみにはまらず歩けたら面接通る」みたいなジンクスが思い浮かんでしまって、ほぼほぼはまるに決まっているのに、でも思い浮かんだからには従わないといけないような気がして、すっぽりはまって落ち込み顔で面接会場入り、みたいなことが起こりそうでこわい。

でも、そういうことってたぶん皆ある。なんでそんなことをするのかわからない、だれのためにもならない行為が、皆のなかにある。そう考えると、人間は愛おしいなあと思う。

 

学校へ行き、学内説明会に参加した。ここで、ちょっとむかつくことがあった。むかついた内容はたいしたことではないし、その会社の人がこれを読んだらこわいから割愛。久しぶりに見かけた友達が同じ教室にいたけど、向こうはわたしに気がついた様子がなかったので、そのままにして学校を後にした。歩いているときに、ヒールがカッカッと鳴るのが怒っている自分と合っていて、歩いていて気持ちがよかった。

次の会社に行くまでに時間があったので、駅前のマックで久しぶりにハンバーガーを食べた。カウンターの席にすわって、スーツに食べかすをこぼさないように用心して食べた。後からわたしのすぐ隣の席に人がすわって、わたしはその人のことを漠然と「髪の長い男の人」だと思っていたんだけど、よく見たらただの髪の長い女の人だった。それを見て「そりゃそうだ」と思い、おもしろくなってしばらくにやにやしていた。

ふつう、髪の長い人は女だ。自分よ、ものごとをもっと真っすぐ見なさい、と思った。だから、電車の中にいた外人さんの鼻を見て、「外人はやっぱり鼻が高いな」と自分に言い聞かせるように、わざとらしく考えた。ほんとうに高い鼻だった。

 

電車を乗り継いで、べつの会社の説明会へ行った。今日もまた、変な、意味不明な自意識のかたまりみたいな、嫌な質問をする人がいて、ひやひやした。説明会のあとは、その駅周辺をふらふら散歩した。とてもいいところだった。そこで、たまたま、しばらく会っていなかった、昔お世話になった人を見かけた。話しかけたかったけど勇気が出ず、気づかなかったふりをしてすれちがってしまった。ちゃんとごあいさつすべき相手だったのに、できなかった自分が恥ずかしくて、すごく後悔した。帰りの電車で、その人に話しかけていれば妄想ばかりしてしまって、自分はしょうもないなと思った。

最寄りの駅について電車を降り、またカッカッとヒールを鳴らしながら歩く。しばらく歩いて、ふとうしろを振り返ると、仕事帰りの母がいた。手を振って近づくと「OLかと思った」と言われ、見てきた会社の話をしながら、一緒に帰った。

 

だれもいなかったら、靴を脱いで、はだしで歩いてしまおうと思っていたのに、結局脱ぐことはできず、家の玄関までカツカツ音を立てながら歩いた。