後悔

 7時半に一回おきて、親を見おくってからベッドにもどって二度寝をした。ここ一ヶ月くらい、平日は毎日こうやって二度寝をしている。親にはちゃんと起きたところを見せて、しゃんとしているふりをして、着替えようかな〜くらいの雰囲気を出しておいて、いなくなったら二度寝をしている。

起きたら10時だった。パジャマを脱いで、CDをかけながらリビングのソファでごろごろした。ソファの布が冷たくて肌あたりがきもちいい。ごろごろしながら、朝ごはんのパンをかじる。チーズをのせて焼いたパンに、ちょっとだけはちみつをかけて食べた。柴田聡子のこのあいだ出たアルバム『愛の休日』のなかの「後悔」がとてもすきで、ここ何日かほとんど一曲リピートで聴いている。

バッティングセンターでスウィング見て以来

実は抱きしめたくなってた

の歌詞がめちゃくちゃすきだ。3分にも満たない曲だから、一日に何回くらい繰り返しているのか考えて、ちょっとぞっとした。同じ曲を繰り返して聴くのってうつ病のチェックリストにいつもあるけど、そんなに関係あることなのかといつも疑問に思う。だめと思いながらも、繰り返して聴いてしまうし、繰り返して聴くのはきもちいいと思ってしまう。

それから、スーツに着替えて、説明会に行った。とちゅう郵便局によっていやな書類をひとつ郵送した。

 

駅に着いたらいきなり雨がふってきて、びしょびしょになりながら会場へ行った。席について、メモ帳とペンを出そうと思ったら、カバンのどこを探してもペンが一本もなかった。アンケートを書かなければいけなかったから、隣の席のひとに話しかけて、かわいいトトロのクルトガをかしてもらった。

説明会のとちゅうで席替えがあったから、クルトガをかしてくれたひとと離れてしまった。ちゃんと返せるか心配になっていたけれど、説明会がおわって会場を出たら、その子がわたしのことを待っていてくれた。

急いでかけよって、クルトガを返すと、流れで一緒に帰る雰囲気になった。一緒にエレベータに乗って、説明会ちょっとねむかったですね、とかいう当たり障りのない会話をした。それからすぐ、おたがい帰る駅が別だったから、建物の前で別れた。そのときわたしが、どっちの道から帰ればいいのかわからなくて迷っていたら、その子に「君はあっちです」と言われて、なんか、「君」と言われたのがおもしろくて変だなあと思った。

それからまた、いつものようにひとつ前の駅で降りた。マクドナルドによって、ソフトツイストを買って、食べながら帰った。ツタヤのポストにDVDを返却した。

家に着いたらもう父が帰っていて、ビールを飲んでいた。わたしはすぐパジャマに着替えて、ベッドでうつ伏せになった。そのうちに気がついたら、1時間くらい寝てしまっていた。起きたら母も帰っていて、ごはんができていて、一緒にごはんを食べた。なすがおいしかった。

 

さいきんなんとなくずっと体が重くて、それはきっと、さいきん前よりもコーヒーとジュースを飲んでいるからだとおもって、今日はたくさん水を飲むようにした。だからか今日は、よくトイレに立った気がする。

いまのじぶんのなかにある、きもちわるいいろいろ、早くぜんぶ体から出て行ってほしい。いくら水を飲んで、おしっこをしても、もう一生出ていかないのかもしれないと思ったらこわい。

 

 

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ソラニンと散歩の話

ひさしぶりに浅野いにおソラニン』を読んだ。

友だちに、芽衣子ちゃんに似てると言われたから。似てると言われると他人事におもえなくなって、ひさしぶりにマンガを読んで泣いた。芽衣子ちゃんは2年で会社を辞めていたなあ。

 

さいきん毎日、家に帰りたくない。最寄駅の5こくらい前で降りて、4時間くらいかけて歩いて帰りたいという思いをおしころして、一つ前の駅で降りて20分くらいかけて帰っている。いまの夜の気温は本当に最高だから、永遠に散歩をしていたい。

歩いているときは、歩いているだけで何かしている気になれるからすき。うまく言えないけど、移動しているとあんしんする。ずっと到着したくない。

じぶんの将来もそうなのかもしれないなあとおもっている。また就職の話しになっちゃうけど、就職したらもう人生到着しちゃうみたいでこわい。ずっと散歩していたい。

 

ソラニンは、浅野いにお作品のなかでは人間の闇とかどろどろしたうつっぽさが少なくて、物足りないくらいに思っていたけど、それは今までじぶんがモラトリアムの中にいたからだったのかもしれないなあとおもった。想像と妄想の未来がたくさんあって、現実とむきあわなくても生きていけた中にいたから。

恥ずかしいけど、自分は勝手に、その辺のスーパーで買い物しているお母さんや、自転車の前後ろに子供を乗せているお母さんになんてならないとおもっていた。だからと言って、とくべつな何かになれると思っていたわけでもないけど、なんとなく、そのへんの普通になって平凡で退屈な毎日をおくるだけのようにはならないというか、ほんと恥ずかしいけどそう思っていたところがあったようにおもう。というか、今までちゃんとそこまで考えたことがなかったのかもしれない。

ソラニンに出てくる人ももともとはみんなそういう感じで、だからこそ自分の幸せに納得するのがむずかしくて、それがまた自分をくるしくしている感じ。

 最後は、同じ価値観を共有できる人たちと場所があれば、結局それだけでしあわせだよね、っていう感じでおわるけど、それに気づくためには、自分がいろんなことを「あきらめた」っていうのを認めないといけなくなるから、簡単にはできないことだよなあっておもう。

 

きのうも一つ前の駅で降りて、そのまま家をとおりすぎてもう一つ先の駅まで歩いて、それから家に帰った。めちゃくちゃきれいにトケイソウが咲いている家があって、野良猫も見つけたし、上手な散歩ができてよかったなとおもって寝た。

 

 

 

 

男は不安定

たとえば、すきな男の子ひとりに、「かわいいくておもしろいな」と思ってもらえればそれだけでいいなと思う。

べつに大企業に勤めなくても、ちいさな田舎の駅員でもいいから、とりあえずひとりでもずっとそう思ってくれるひとがいれば。

そして、じぶんもその男の子のことをおなじように、ずっと、「かわいくておもしろいな」と思えるといい。

これまでわたしは、それは女の子のともだちでじゅうぶんだと思っていたけど、いまはじゅうぶんじゃなくなった。

 

なんというか、じぶんの人生に期待していたところがあったなあとおもって、反省しているところ。10分ちょっとの面接でばつをもらうと、じぶんのことをいいように勘違いしていた恥ずかしいやつだと言われているような気がして、くやしいというより、自己嫌悪感がすごい。

世間的におもしろくなくても、かわいくなくても、だれかひとりだけでも、いいなあっておもってくれるひとがいれば、それでいいんだなあとおもう。そういうひとがいたら、面接官につまんない人間印つけられてもがんばれるはず。

 

きょうは、これから先何十年もまだまだ人生があるとおもうとつらくてしかたなかった。絶望的できもちわるくなった。もうあしたに、地球滅亡してしまえとおもうくらい。

でもそれは、この先の人生に期待しているからそうおもうみたい。だからもうすべてあきらめることにした。ぜんぶあきらめて生きるのがいいみたい。

 

そうすると、本格的に就活もどうでもよくなって、あしたの試験も、あさっての面接も、もう行くのすらいやになってくる。だからそれはそれでまちがっている気がしてくるし、どうしたらいいのかわからない。じぶんをだますのがへたくそだなあとおもってる。

 

ファンタスティックな夜だぜ 一人考えこんでたって 
何もでないんだったらやめちまって 遊ぶなり寝るなりする
不安でスティックが折れたぜ 夢は考えこんでたって 
何も出ないさ 別に仲間なんて 一人か二人いればたくさんだ

ゆらゆら帝国/男は不安定

 

カルピスの棒

さいきんカルピスが主食なんじゃないかというくらい、カルピスを飲む。原液をみずで割って、濃いめにして飲むのがおいしい。

混ぜる棒も、それ用のかわいいガラスでできたやつをつかっていたのだけど、さいきんになって割ってしまった。先のほうにガラスでできたちいさいりんごがついていて、かわいくて、とても気に入っていた。それに、かき混ぜるたびにガラスのコップとぶつかって、かちかちいい音がなった。その棒はたしか何本かセットで買ったやつで、ほかにもすいかやいちごがあった。でも、かわいい見た目のとおりとても割れやすく、他のはもうずいぶん前に割ってしまっていた。最後まで生きのこったのがりんごで、もうそれも割った。

代わりの棒がもうないので、指で混ぜようとしたりする。だけど、コップの底は人差し指ではとどかないほど深い。とどかないくせにぷりぷり指を動かしているときはいつも、小学生のときの学校にあった深いプールを思いだす。プールの底に足がとどかなくて、必死に顎を突き出しながら、足をぷりぷりしていた小学生のじぶん。

しかたなく、ステンレスのスプーンやフォーク、おはしの片方で混ぜるけど、とくにフォークはガラスのコップと先の部分があたっていやな音がなるので、つかいたくない。おはしは、木の味がカルピスにしみそうでだめ。だからもう混ぜるのをやめた。

飲むときに、まずさいしょに上澄みの、うすいカルピスみずをすこし口に含んで、それを飲み込まないでいったんコップの中に勢いよくもどす。つまり、そのうすいカルピスみずの勢いで混ぜようとしている。きたないけど自分しかしらないことだし、飲むのはじぶんだからだいじょうぶとおもってる。でも、カルピスはそんなんじゃぜんぜん混ざらないもので、だからさいきんはいつもコップの底がべとべとで、洗うときちゃんとみずにつけておかないと落ちなくなった。それに、原液の減りがはやくなってしまった。

カルピスの混ぜる棒を買いに行かなきゃ。

すべての仕事は売春である

徹夜で書き上げたエントリーシートをふくろに入れて郵便局まであるく。ほぼパジャマのかっこにメガネで、それにしてブルーハーツを聴きながらずんずんあるくから、勝手に青春をかんじていて、じぶんでもおもしろいとおもった。

それから帰ってぜいたくに昼寝をした。学校は行くのをわすれてしまった。起きたらもう夜になっていた。

さいきん晩ごはんをたべるとき、つまらないテレビがついているのがすごくいやだ。今日も、リンパ液の流れがどうたらというどうでもいい番組がついていたし、それを両親がいっしょうけんめい見ているのがいやだった。晩ごはんはぜんぶ食べれなくてのこした。

 

へやが散らかっているんだけど、でも、いろんなものが床に落ちているなかでベッドにねころぶのはとても気持ちいいからすき。ちいさいころ、横断歩道の白いところ以外は海になっていると考えちゃうのとおなじかんじがする。

さっき岡崎京子のpinkをひさしぶりに読みなおして、わたしもワニを飼って、いまこのベッドの上からずっとながめていたいということをかんがえてる。

 

 

4月18日(火)

靴がだめになったので、帰りにあたらしいのを買った。それから今日もストッキングをやぶってしまったので、ストッキングも買った。ワイシャツも一枚買い足して、ついでにバイト先に顔をだすかまよって、結局やめて、本屋によって帰った。

 

元気でいるようにすることは、かなり大事だとおもった。このところ、しばらく元気が出なくて、就活関係で人と接するときはもちろん元気にするけど、あとは週一回のゼミで先生と友人何人かと話すくらいで、それ以外はだれにも会わなかった。家に帰って親に話しかけられてもあいまいな返事ばかりで、ほとんどなにもしゃべらず、ごはんもおいしそうに食べないし、ずっと自分の部屋にこもっていた。いちいち今日はどの会社説明会に行ってきたとか、どこのは通った、落ちた、とか言うのがけっこうしんどかった。

家の中で笑ったりするのは、毎週木曜日のハライチのラジオを聞いているときだけだった。ハライチのラジオは救世主だったので、生で聞いてかつ、いつタイムフリーを使ってしまうか(一回しか聞けないから)をかなり慎重に考えているくらいだった。

 

自分のなかにある感情の入れ物がいっぱいになっていて、表面張力でぎりぎりこぼれないというかんじで、なにかの拍子に一滴でも水が入るとあふれ出し、泣いてしまうじょうたい。

先日はその一滴が、朝家を出る前に、父に「家のコピー機をなおしてほしい」とたのんだときの父の態度だった。きのうは平日だったけれど、振休で家にいるというので、「コピー機の接触が悪いのをなおしておいてほしい」とたのんだ。そうしたら、一回で聞き取ってもらえなくて、かなりイライラしたいやなかんじで「はあ?なに?」と聞き返されてしまった(今となっては、ずっと生きた心地のしない、反応のうすい娘に気をつかうのもいやになっていたんだとおもうけど)。

こらえてもう一度言いなおすと、父は「あーはい、それならすぐ直せるからやっとくよ」と言った。じつはこの何日か前にもいちど、コピー機がおかしいということを父に話していたので、簡単なんだったらこないだ言ったときになおしておいてよ、とおもった。

わたしはその前日、このコピー機がこわれていたせいで、深夜3時にコンビニまで走ったのだ。まあそのときは別に、直してほしい、とまでは伝えていなかったから自分がわるいのだけど。

 

そこから、相手が真意をわかってくれないこと(面接やエントリーシートで伝えたいことがうまく伝えられないなど)で溜まりに溜まっていたくやしさがあふれ出してしまって、最寄り駅まで歩く途中にがまんできなくなった。なんか変な音楽を聴いていたんだけど、それでもだめで、歩きながら泣いた。

基本的に最後の一滴はかなりくだらない出来事だ。弱いようにおもえて笑ってしまうけど、このあいだまではほんとうにそんなかんじだった。

その一滴は、やさしい言葉とか態度のときもあって、説明会のときの人事の人の締めの言葉だったりとか、吉本ばななの文章だったりとかもした。3日連続くらい、キッチンをぱらぱら読んで、だいすきだ~と思って涙をこぼしていたこともあった。

 

今日も、そんなかんじで家を出て、朝から選考に行った。お昼前におわってケータイを見たら、父から「がんばりすぎるなよ~」とラインが来ていて、はっとした。

こんなに思い詰めていてもなにも良いことはないし、腫れものみたいになって、まわりに迷惑をかけるだけだということにやっと気がついた。

 

わたしは、こういうところがかなり要領わるい。自分で自分を、自ら好んで追い詰めてバカだとおもう。ストイックといったらそうなんだけど、だんだんとストイックでいることに満足感を得てしまうのだ。浪人して、受験に失敗した理由もそれだった。一年間、いろんなことをがまんして勉強をがんばっているつもりだったけれど、実際は「がまんしてがんばる」ということをがんばっていただけで、勉強自体に身を入れていなかったんだなあと、終わってから気づいた。そういう失敗をまたしそうになっていた。

 

ええと、そういうよわよわじまんをしたいのではなくて、キャノン・バード説じゃなくて、ジェームズ・ランゲ説だ、ということを自分に言い聞かせるために書いている。

つらいとおもってると実際つらいし、たのしいことなくなるし、おもしろいことを見落としてしまうよ~ってブログに書いて、自分を励ます変なひと。

 

 

 

ネトストの歌(完)

このあいだ、5年前からネトストしている女の人に、ついにばったり会ってしまった。去年の9月にネトストの話を書いたときに、たぶんもうすぐどこかで会うんじゃないか、と言っていたんだけど、約半年後ほんとうに会った。正確に言うと、わたしが一方的に見つけただけで、たぶん相手の視界には入っていないし、会話もしていないから、会ったというか見た、という感じなんだけど、けっこうな大事件だった。

わたしはその日、映画を見た。エンドロールが流れきって明かりがついて、真ん中の席だったので、まわりよりもすこしゆっくり立ちあがった。そのまま、ロビーのひらけたところに置いてある公開待ち映画のチラシをじっくり見て、面白そうなのを何枚か選び、そのチラシを見ながらふらふらと映画館をあとにしようとした。そのとき、一瞬すれ違った女性が、まちがいなくその人だった。

わたしは前を見ないで歩いていて、人にぶつかる、とおもってあわてて顔を上げたので、ほんとうに一瞬の出来事だったんだけど、ほんとうにもう絶対に、その人だということがなんとなくわかった。わからないけど、完全に、絶対的にわかった。写真はそんなに見たことはなかったけど、わかった。一瞬何が起こったか理解できなくなって、急いで振り返って三度見くらいして、それからしばらくその場に立ちすくんでしまった。映画とかドラマとかでよくあるシーンみたいに、一瞬まわりの音が何も聞こえなくなったような気がした。向こうはもちろんわたしのことなんて一切気にしていなくて、ただ通り過ぎて行っただけだったけれど。

思っていたよりも背が小さかったとか、やっぱりおしゃれだったとかそういう感想よりも、本当に存在していたとかいう変な感動よりも、「やっぱりな」と思った。やっぱり、話したらぜったいにわたしたち合います!という妙な自信が湧き出た。

ここにおいて、ちゃんと弁解させて欲しいのだけど、わたしはその映画館にその人が来ることがあるとか、この映画その人も見そうだなとか、そういうことは全く、一切考えていなかったし、知らなかった。ほんとうにいろんな偶然が重なった、奇跡みたいなものが起こったんだと思う。

 

その人は、わたしがいちばん行きたかった大学に通っていた人で、たしか高校生のときに、ツイッターで大学名と学部で検索して、まずプロフィールに大学名とか学部とか書いている人を見つけて、そのフォローから飛んで、飛んで、飛んで、飛んだ人が入っているサークルのアカウントに飛んで、そのフォロワーから飛んで、飛んで……という感じでその人を見つけた。その行きたかった大学は、今わたしが住んでいるところからだいぶん離れた地方にある大学で、その人は生まれも育ちもそこの人で、大学を卒業してからも、そのままその地方の会社で働いていた。一方、わたしはその行きたかった大学に落ち、自宅から通える別の大学に通っていた。だから、会うことなんて一生かかってもないと思っていた。

ちょうどその日の朝も、その人のツイッターを見ていた。最近はあまり頻繁には見ていなかったから、4、5日前のツイートにすごく納得することが書いてあったのを見つけて、ついでにお気に入りも見て、リンク先の記事をひとつ読んでいた。

その映画館を出てからは、その人に会ったことを引きずって、ぼーっと、何かてきとうに音楽を耳に入れながら、うわのそらのまま家に帰った。そして寝る前に、ベッドの中でもういちどその人のツイッターを見た。そうしたらやっぱり、映画を見たことが書いてあった。その日にわたしが見たのと同じ映画で、わたしが見た次の回のを見ていたようだった。

 

前にも書いたけど、現代においてこんなことは、もしかしたら日常茶飯事なのかもしれない。わたしだってどこかの映画館で誰かに見つけられているのかもしれないし、わたしのSNSを、今日も更新されてない、今日も更新されてない、って毎日確認しているまだ見ぬ人がいるのかもしれない。

見えているものなんてほんの一部でしかなくて、無言の認識の中にほんとうのコミュニケーションは存在していて、結局はぜんぶつながっているのかもしれない。

もうこわいから、わたしは、この人の話はこれでおしまいにする。これから会うことがあっても、顔見知りになることがあっても大丈夫なように、これで終わりにしようと思った。


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