千里の道も一歩からとかいうけど

すべてのことは一つずつやるしかなくて、1をいきなり10にするのは無理なことだとよくわかっているけれど、それがたまにわからなくなる。1を「今すぐに10にしなければ」と急におもうときがあって、あれこれやろうとするんだけどもなぜか何にも手がつかず、ただそわそわそわそわして時間だけが過ぎてゆく。

さいきんそういうことが多い。一つずつ読んで一つずつ書いていくしかないのに、まわりのことを考えてしまうと、どんどんほかにやるべきことが出てきて焦って焦って、けっきょく一日中焦ることしかしていないと気づく。自分はかなり頭がわるいんだろうなあとおもう。頭がいい人は、わたしがそわそわして白い顔であれこれやろうとしているあいだに、1を2に2を3にというぐあいに、どんどん10に近づいていく。そうして、気がつくと1と7くらいの差ができているのだ。

そもそも、人のことを気にするから1を早く10にしなければとおもってしまうのであり、まわりを気にせず自分のペースでやっていけば、「気付いたら10になっていた」というふうに上手くいくものだとおもう。それでも、わかっていてもできない。ほんとうに病気の人みたいに、わからなくなっちゃう日がある。

 

それから、あたり前だけど、自分が大すきなものをもっとすきな人はいて、自分が得意だとおもっていることをもっと上手にできる人もいる。わたしが知らないことを、たくさん知っている人もいる。わたしがやりたいことのそばにいる人だって死ぬほどいるし。わたしは1からのスタートだけど、3からのスタートの人もいれば、もう8とかの人だっているわけで、そういうことを考えてしまうと、またさいしょに書いたところに戻るというわけ。

 

 

春が来そうでさびしいだけ

今日は、1日に3軒も喫茶店に行ってしまったから、かなりだめ人間だった。

午前中に面接があったんだけど、言いたいことがうまく言えず、くやしいおもいをした。一生懸命に伝えようとすればするほど、どんどん自分が何を言っているのかわからなくなって、話が到着しなくなりそうで、それが怖くなってもっともっと話すけど、そうすればするほどぐちゃぐちゃになっていった。たとえるなら、書道の二度書き、よくばったバイキング、すっぴんのほうがかわいい!。

それにしても、面接官の女のひとの福耳がすごかった。その福耳を見て、中学生のとき福耳の友だちのことを「福耳みみちゃん」と呼んでいたのおもいだした。それから、同じグループだった女の子がももクロの赤い子にそっくりで、むしろその赤の子がお忍びで就活しているくらい似ていた。その子の話もなかなかにぐちゃぐちゃだったけど、一生懸命話す姿がすごくかわいかった。おわって会社を出たところで、「ももクロに似てますね」と話しかけて、駅まで一緒に帰った。

わたしは、緊張していると、方向音痴が病気レベルになってしまう。だから、面接や説明会の1時間半前くらいにその最寄駅について、まず一度その会社まで行って入り口を確認するようにしている。そして、そこからいちばん近くの喫茶店を探して入る。それでも、そこから会社へ向かうとき、ついさっき通った道と同じでも、朝はなかった車が止まっていたり、閉まっていたお店が開いていたりするだけで、まったくちがう場所に見えてしまう。それで、不安になってべつの道へ行き、ここもちがう、さらに別の道に行き、ここもちがう、もう自分がどこにいるかわからなくなって、グーグルのアプリを確認してあわててもどる。これだけちゃんと自覚しているのに、ほんとうにわからないのだ。今日も、きのうもそうなってしまった。そういえば、浪人したときのセンター試験も、トイレに行ったきり自分の席にもどれなくなって、立ち入り禁止の場所に入りそうになって、係りの人に保護されたことがあった。

 

今日はあまりいいことがなかったけど、天気が良かったし、昼はだいぶんあたたかかったからか、なんとなく気分も良かった。これで雨だったら、面接おわり、びしょびしょになって泣いていたかもしれない。もうダッフルコートはクリーニングに出したし、さむいのは飽きた。「春が来そうでさびしいだけ」という平賀さち枝の曲がぴったり合う日だった。

もうすぐ4月になって、学校に行けばきらきらの新入生がいて、5月びょうだとかいう人が出てきて、すぐ誕生日が来てしまう。そのころ就活はどうなっているのか、考えるのがこわい。

晴れてても寒い日

家から駅まで歩くあいだに、左足のパンプスのヒールが、排水溝の蓋の7個に1個くらいある銀のあみあみのところにはまって抜けなくなった。結構あせったけれど、すこし力を入れたら思いのほかすぐに抜けたので、よけいにあせっていた自分が恥ずかしくなって赤面する。そして、だれにも見られていないのに、勝手に恥ずかしがっている自分がまた恥ずかしくて、赤面に拍車がかかる。それなのに、まるで何事もなかったかのようにすかした顔で歩こうとする自分がおもしろくて、笑ってしまう。

就職活動がはじまってスーツを着るようになってから、こんなことを、もう5、6回くらいやっている。ヒールのある靴でその上を歩けば、そのあみあみのどこかの穴にすっぽりはまる可能性があることはわかっているのに、どうしてもそのあみあみの上を歩きたくなってしまう。でも、はまったらはまったであせるし、はまらなかったら、「うぃ〜セーフゥ〜〜ッ…!」と楽しくなるわけでもなく、それはそれでなんだか物足りないように感じる。結局のところ、自分は何がしたいのかわからないし、全くもって無意味だと言い切れる行為だと思う。しかも、きっとこれから選考が進むにつれて、「あみあみにはまらず歩けたら面接通る」みたいなジンクスが思い浮かんでしまって、ほぼほぼはまるに決まっているのに、でも思い浮かんだからには従わないといけないような気がして、すっぽりはまって落ち込み顔で面接会場入り、みたいなことが起こりそうでこわい。

でも、そういうことってたぶん皆ある。なんでそんなことをするのかわからない、だれのためにもならない行為が、皆のなかにある。そう考えると、人間は愛おしいなあと思う。

 

学校へ行き、学内説明会に参加した。ここで、ちょっとむかつくことがあった。むかついた内容はたいしたことではないし、その会社の人がこれを読んだらこわいから割愛。久しぶりに見かけた友達が同じ教室にいたけど、向こうはわたしに気がついた様子がなかったので、そのままにして学校を後にした。歩いているときに、ヒールがカッカッと鳴るのが怒っている自分と合っていて、歩いていて気持ちがよかった。

次の会社に行くまでに時間があったので、駅前のマックで久しぶりにハンバーガーを食べた。カウンターの席にすわって、スーツに食べかすをこぼさないように用心して食べた。後からわたしのすぐ隣の席に人がすわって、わたしはその人のことを漠然と「髪の長い男の人」だと思っていたんだけど、よく見たらただの髪の長い女の人だった。それを見て「そりゃそうだ」と思い、おもしろくなってしばらくにやにやしていた。

ふつう、髪の長い人は女だ。自分よ、ものごとをもっと真っすぐ見なさい、と思った。だから、電車の中にいた外人さんの鼻を見て、「外人はやっぱり鼻が高いな」と自分に言い聞かせるように、わざとらしく考えた。ほんとうに高い鼻だった。

 

電車を乗り継いで、べつの会社の説明会へ行った。今日もまた、変な、意味不明な自意識のかたまりみたいな、嫌な質問をする人がいて、ひやひやした。説明会のあとは、その駅周辺をふらふら散歩した。とてもいいところだった。そこで、たまたま、しばらく会っていなかった、昔お世話になった人を見かけた。話しかけたかったけど勇気が出ず、気づかなかったふりをしてすれちがってしまった。ちゃんとごあいさつすべき相手だったのに、できなかった自分が恥ずかしくて、すごく後悔した。帰りの電車で、その人に話しかけていれば妄想ばかりしてしまって、自分はしょうもないなと思った。

最寄りの駅について電車を降り、またカッカッとヒールを鳴らしながら歩く。しばらく歩いて、ふとうしろを振り返ると、仕事帰りの母がいた。手を振って近づくと「OLかと思った」と言われ、見てきた会社の話をしながら、一緒に帰った。

 

だれもいなかったら、靴を脱いで、はだしで歩いてしまおうと思っていたのに、結局脱ぐことはできず、家の玄関までカツカツ音を立てながら歩いた。

 

昔好きだった人のこと

小学1年生のときに好きだった男の子のことを思い出した。

ちょっとぽっちゃりしていて、特に運動ができるわけでもなく、かっこいいわけでもなかったけど、色が白くて目がキラキラしていた男の子だった。お父さんが近くのおしゃれなパン屋さんのオーナーか何かで、品のある感じの子だった。わたしは、外で泥だらけになって遊んだりする女の子で、このころは運動も男の子に負けないくらいできる子だった。どうやって好きになったのかは全く覚えていないけど、たぶん席が近かったとかそんなんで、その子もわたしのことが好きで、休み時間とか放課後に二人きりで遊んだりしていた。

わたしは1年生が終わったとき、とおいところへ転校することになった。でも、父の転勤についていくだけだったから、3年間だけ、と決まっていて、5年生になる頃には同じ小学校に戻ってくる約束だった。

今でも覚えているけど、引っ越しの日に、その男の子がそのパン屋さんのお父さんの車に乗って、私のうちまで来てくれた。車から降りてきて、わたしも母と一緒にあいさつをした。そしたら、そのお父さんが「〇〇、お小遣いためて、プレゼント買ったんだよね」と、その男の子に言った。男の子は、すごく悲しそうな顔で、わたしにプレゼントをくれた。わたしは、会いに来てくれたことが嬉しくて嬉しくて、すごくニコニコしていたのに、その男の子は今にも泣きそうな顔をしていて、それがよくわからなかった。自分とお別れするのを悲しんでいる、ということに気がつかなかった。わたしに会えて、何でそんなに悲しい顔するの?という感じだった。プレゼントの中身はプーさんの目覚まし時計で、それから何年もの間それで起きていた、その男の子のことを忘れてしまっても、使っていた。

たしか、離れ離れになっても何回か文通をした。でも、小学生の恋愛なんてかわいらしいもので、わたしは新しい学校ですぐ、運動のできる元気な人のことを好きになったし、きっとその男の子もそうだったと思う。

 

小学5年生になったとき、約束通りわたしはその小学校に戻ってきた。みんな覚えてくれていて、帰ってきたことを喜んでくれたけど、その男の子はもういなかった。わたしが転校している間に、その子も別のところに引っ越してしまったらしかった。

小学1年生のあの時以来もう、一生会うことはなかったし、これから会うこともないと思う。別に悲しいわけでもないけど、人間そんなもんなんだなあと思っておもしろくなる。あの日の自分は、一生のお別れだってことはすこしも考えていなかったし、その男の子も、わたしの母も、そんなことは考えていなかったと思う。でも、あの日が一生の別れで、もう会うことはなかった。

今も、そういうお別れがたくさんあるんだと思った。何年かして、あ〜あれがあの人との一生の別れだったな〜って思うようなことが。別に片方が死ぬとかそういう大きなことが起こらなくても、意外と会えない人は多い。わたしは、それをあまり悲しく思えない。別に、だからもう一度会いたい、とか強く思うようなことがほとんど無い。今だって、その男の子に会いたいかと言われれば、会いたく無い。それがこわい。もっと、人に対して執着したほうが、人生は楽しいし楽だと思う。

今日、インターネットでその男の子の名前を検索しようとした。でも、名前の漢字が思い出せなくて、できなかった。思い出さないようにしているのかもしれないけど、見つけられなくて安心した。

2017/03/01

今日は、はやく起きて学校に行く予定だったけど行かなかった。いつものようにだらだら準備をして、それから、やっと就活用の写真を撮りに行った。

写真を撮る前に、隣の美容室でお化粧をしてもらう予約もしていて、やってもらったんだけど、それが最悪だった。一般的に見たら、自分がいつもしているてきとうな化粧よりも見栄えがいいものだったんだろうと思うけど、もう、わたしは本当に嫌だった。就活が終わったら、写真はもし余るようだったら燃やしてやる。データを入れてもらったDVDも、はさみを入れて処分する。あんなに鏡の中の自分が気持ちわるかったのは、はじめてのことだと思う。寝起きのむくんだ顔の自分よりも、ものもらいで片目が腫れている自分よりも、どんなに肌荒れしている自分よりも、おたふく風邪で顔がパンパンの自分よりも、他人の顔で、気持ちわるかった。

撮影はすぐおわって、写真も選んで、受け取りは後日だったので、係りの人が「今日はこれで終わりです」と言って、エレベーターまで送ってくれた。そこで、もう耐えられなかったので、お手洗いお借りしていいですかと言ってトイレに逃げ込んだ。鏡の前に立って、水に濡らしたティッシュでらんぼうにまゆげを拭いて、ケバい目をごしごしこすった。わたし、本当は、こんなことしたくないんだよ〜って思っていたら、涙が出た。スーツ着て、慣れないヒールを履いて、こんな化粧をされて、もう嫌だ嫌だ嫌だーってなった。水じゃ化粧はもちろんきれいに落ちなくて、目の周りはよけい黒くなった。そんなことをしていたら、この先もこんなことだらけなんだと思って、悲しかった。ぐしゃぐしゃの顔面のまま、マスクをつけて、エレベーターに乗った。

それで、もうはやく忘れたかったから、映画でも見ようと思って、映画館によって、映画を見て帰った。「たかが世界の終わり」を見た。結局、目の周りが黒くなったまま映画も見て、電車に乗って、家まで帰ってきてしまった。

変わらないまま

片方が変わらないものであるなら、もう片方は変わっていくものか、もしくは、もう変わってしまったものになる。とくに、片方が男で、もう片方が女だったら、そうだと思う。

変わらない、っていうのは、過去を基準にしてそれと比べて変わったとか変わってないとか言っているように思えるけど、ほんとうはそうじゃなくて、自分と比べているんだと思う。自分との距離感が、変わらないのか変わったのかということで、なんか変わったね〜って言われても、それはその人が昔と変わったんじゃなくて、自分とその人との間に、昔と違う感じがあるということになる。だから、それだけではほんとうに変わったのはどっちなのかわからないと思う。

 

ラ・ラ・ランド」はヒロインのミアが変わっていくほうなら、セバスチャンは変わらないほう。「カルテット」では松たか子が変わったほうで、クドカンが変わらなかったほう。「ニュー・シネマパラダイス」は主人公の男の子が変わっていくほうなら、ヒロインが変わらないほう。「さくらの唄」も主人公の一ノ瀬利彦が変わっていくほうなら、仲村真理が変わらないほう。「ニキの屈辱」は加賀美くんが変わっていくほうなら、ニキちゃんが変わらないほう。「うみべの女の子」は磯部が変わっていくほうなら、小梅ちゃんが変わらないほう。

 

「ニュー・シネマパラダイス」と「さくらの唄」は、それぞれが大人になって立派になったとき、変わらないもの、の対象であるヒロインと自分との間にできてしまった距離感に気づいて、自分の大切にしていたものがわからなくなってしまう、もう取り戻すことのできない、忘れていたものを思い出してしまう、そういう切なさが描かれている。

「ニキの屈辱」と「うみべの女の子」も、女の子のほうが変わらない話だけど、ここで描かれているのは、置いていかれる方の悲しさであるからまたちょっとちがう。

 

置いていかれることは、きっとどんなことであれ、誰でもいい気持ちはしないと思う。だから、変わりそうのないもの、の対象を見つけて、安心しようとする。それで結局、その変わらないはずのものが変わったら、あいつも変わっちゃったな〜とか、ここもああなったか〜って、勝手に文句を言って、悲しくなっている。変わった変わらないの基準は、自分の中にあるんだから、変わったほうは、多分そんなに悪くない気がする。それに、その変わらないものがずっとそのままでいたとしても、それに対して変わった分の自分を振り返って悲しくなるんだから、意味がない。

 

 

書いているうちによくわからなくなったけど、とりあえず今日ラ・ラ・ランドを見た。

考えてみるとわからないこと

お酒飲んですぐ赤くなって、すぐ酔う自分は嫌いだし、嫌いな人とも上手に話せる自分は嫌い。何事に対しても、いつでも逃げられるようにしている自分は嫌なやつだと思うし、自分はわかってる、みたいな構えをしたがる自分には吐き気がする。それでも、結局は、しあわせになりたいとか彼氏がほしいとか、てきとうに言うし、動物とか子どもはかわいいと思うし、羽目をはずしすぎるのはこわいし、夜は寝ないと次の日つらい。

自分のあたまの中を、ありのままぜんぶ見せてしまうのはもったいないと思っているし、やりたいことをたのしそうにやるのは、ちょっと恥ずかしい。それでも、わかってくれる人はいると思っているし、わかってくれる人だけわかってくれればいいと思ってる。力を抜くことに力を入れていて、ほんとうはなにもわかっていない。このブログだってそうだし、手帳のなかも、アイポッドのなかも空っぽで、つまらない。人に合わせて生きていて、対人関係の上でしか人格がない。癒し系でもなければ、変わり者でもない。でも、どうやったって背は小さくて声は高いし、夜中によくかわらない映画を見たり、駅からの帰り道、石を蹴りながら帰ったりする。

酔って終電で帰ってきて、布団のなかでこんなことを考えていても、あしたはちゃんと朝起きてバイトに行くし、いまの自分のことをすごくはずかしく思うし、たぶん朝はくるりとか聴く。結局、自分は自分にすごく甘くて、自分のにおいがだいすきで、自分がいちばんいいとおもっていて、でもそういうのはかっこわるいって知っているから、自信がないようにしているし、嫌われるのはすごくこわい。自分のなかのものはぜんぶ矛盾していて、きもちわるくなる。