自分のぼろぼろビニールについて

処女とは私にとって、新品だった傘についたまま、手垢がついてぼろぼろに破れかけてきたのにまだついてる持ち手のビニールの覆いみたいなもので、引っ剥がしたくてしょうがないけど、なんか必要な気がしてまだつけたままにしてある。 

 綿矢りさ勝手にふるえてろより。

わたしは処女だから、そのことで何かしらの一定のラインを引いていて(まわりからも引かれていて)それが自分を守ってくれているように感じるときがある。飲み会で酔っぱらってどんな下品な話をしたとしても、このことで、自分もそのまわりの人もなかなか踏み込めないようになっているのではないか。だからもし自分が適当なだれかとセックスしてしまったら、この均衡はぽろぽろと崩れてくる気がする。例えば、今、仲良くしている男の子の友人たちとも変な感じになってしまうかもしれないし、合コンに行ったときも、ただのビッチ枠になってしまうかもしれない。こんなことを考える自分は意地汚い感じがする。なんかずるい。罰が当たりそう。でも、こういうことを考えたらやっぱり、自分にはまだ必要なものなのだと再認識する。いらないいらない、あと何年処女だったら死ぬとか言いつつ、結局のところ、自分で大事に大事にかわいがっているんじゃないか。このぼろビニールに守ってもらっているんでしょう。まわりからみたら邪魔でなんで剥がさないの?って思われているかもしれないけど、わたしにとってまだこれは大事なもの。勝手に剥がされたら困る。

でも、実際のところ、どうなんだろう。よく遊ぶ男友達と変な感じになったり合コンでビッチ枠となるのは。すごく楽しいのかもしれない。もちろん、まわりから見て良いことではないということはわかるけど。大学の友達でそういう感じの子いるけど、普通に仲良くしているし。高校の頃の友人に話したら引かれて敬遠されそう、とか、両親が知ったら悲しむとか。ご先祖様に申し訳ないとか。もっと物理的な問題で、病気になるとか。そんなことより自分がどんどん空っぽになっていくのかなあ。そんなことしていなくても、十分空っぽなときもあるんだけどなあ。最近、山本直樹とかそういうマンガを好んで読むのでよくわからなくなってしまった。

でもでも、次の誕生日が来たら、ぜったいに好きな人を自分の中で好きな人と認めて(好きな人中学3年からいないと言ってはいるが、だれにも話していなかったから好きと気付かなかっただけで、今思うと実際は、ああ、あの人のこと好きだったなあってのはいくつかあるから、自分でその人のこと好きだってちゃんと気付いて認める)、現実的に行動に移して(ネトストばかりじゃ本当になんにもならない)、アピールして(今の自分はあの人に会いたいなと思っても、その人にラインすらできない)、つき合って(ずっと仲良くしていたいから、つき合うとどうせいつかお別れしちゃうからこのままの関係にしておこうとか、なし)、そして、やさしくおんぼろビニールを剥がしてもらいます。