うさピヨにゃーにゃ

このあいだタンスの中を整理していたら、むかしアメアパで買った、すごくすごく丈が短いデニムのミニスカートが出てきた。広げて、いまの自分にあてがってみると、こんなの洋服じゃない・・とおもった。もう履けないし、こんなのを良いとおもっていた自分がいたことにおどろく。はずかしかった。自分はどんどん変わっていくなあ、とおもった。わたしは、いつも自分のことを好きになれないけど、むかしの自分のことはもっと嫌い。とりあえずこのころの自分よりは今ましだわ、とおもう。なりたい自分はいつもとおくて、たぶん永遠に自分に満足なんてできないんだとおもう。

大学生になって、自由に使えるお金や時間がふえたことで、やっと自分のほんとうに好きな物がわかってきた感じはある。映画でも音楽でも、はやりとかまわりのともだちにまどわされない、ほんとうに良いとおもうもの。最近は、洋服も、季節にごとにほしいものをすこし買い足すくらいで、去年のままほとんど着られるし、むしろそれが楽しくなっている。春になれば、今年もこのワンピースの季節になったな、とか思うし、秋にはタンスの奥底からセーターをひっぱりだして、柔軟剤のいいにおいにしんせんなきもちになる。ちょっと前までは、去年のその季節に着ていた服のセンスのなさに毎年がっかり、去年の自分にどん引きしていた。着たくなくなった服は、部屋着に成り下がるか、捨てるか、だれかに譲るかリサイクルショップに売るかしていたけど、もうそんなことはしなくなった。

こうやって、だんだん落ち着いていくんだろうか。そのうち逆に、今の自分よりもすこしはむかしのほうがましだった、とでも言うように、あのころはよかったな、20代のあのころの自分に戻りたい、とでもおもうのか。若い頃はたのしかったわ〜とかべちゃくちゃ言ってるおばさんの仲間入りか。過去の自分を好きになれるのはいいけど、そればかり言うのは醜いだろうなとおもう。

それから、自分が変わったのに、それを自分以外のせいにするのはよくないとおもう。すごくきらい。自分が好きになった人のことを嫌いになった(または、自分のことを好きになってくれた人に嫌われてしまった)のは自分がなにかしら変わったからなのに、それを、なんかやっぱり合わなかったんだよね〜とか言うなよ、とおもう。たのしいたのしいって言ってじまんしていたサークルの活動とかバイトとかをやめるときに、ぼろくそ悪口を言うなよ、とおもう。もちろん他人のせいのこともあるけど、たいがいはそういうのを後付けの理由にして、自分の良いように言う。でも、わたしは、そうはおもっているけど、タンスの奥から見つけ出されたミニスカートを履いていた自分をなかったことにしたい、とおもったように、そういうことは、おもっているよりも自然に言ってしまっている。ともだちからしてみれば、「いや、このあいだはこう言ってたのに。」とおもわれていることはよくあるだろうな。いやだなあ。ちゃんとぜんぶ有言実行したいのに、ぜんぜんできない。21歳のうちにブータンに行くと言っていたのに結局行かないし、ギター練習すると30回くらい言っているのに、ギターの練習していない。就活のはなしでも、金融とかそういうつまんなそうなのは嫌、半導体売ったりなんてできないとか言いつつ、そういうとこに就職したらうまく理由をつけて、そのむかしの自分を置いてきぼりにしてしまうんだとおもう。どれも自分の頭で考えて自分の口から出た言葉なんだから責任をとりたいとおもうけど、自分は変わっていったり、そのときのちょっとしたかっこつけたいきもちとか雰囲気とかに負けてあれこれ取り繕ってしまったりして、その言葉をかんたんにうらぎってしまう。生きていく上でしょうがないことかもしれないけど、ほんとうにしょうがないことなのかわからない。

こういうことがあって、自分のこととかともだちのことがいやになったときは、トリプルファイヤーの「SEXはダサい」を聴く。

ごめん、そのときはそうおもった〜

そのときおもっただけなんでべつに、責任とれませ〜ん

とふわふわ言ってくれるので、まあいいか、どうでもいいやとおもえて楽になる。今日もお経のようにこの曲を聴いた。