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紫陽花

小さいころ、紫陽花はかわいくないとおもっていた。お花は、ひとつでころんと咲いているのがかわいくて、細い一本の茎に支えられているその、か弱そうな感じとか、雑草の緑や土の茶色にぽつんと映えるようにそこにある、そういうのも含めてお花のかわいさだとおもっていた。紫陽花は、小さいお花がたくさんいっぱい一緒になって一つで、それが一つの根からいくつも咲いているから、ちがった。脳みそにも見えたし、ブロッコリーやカリフラワーぽくもあった。「あじさい」という発音もかわいくないとおもっていた。チューリップとかタンポポとか、さくらとかはかわいいのに「あじさい」って、濁点もあるし地味である。でも、わたしはなにかと紫陽花と縁があって、幼稚園のときにも母が作ってくれる座布団とかなんとかいれとかにはよく紫陽花の刺繍がしてあったし、大人の人によく紫陽花の話をされた。だから、好きになりたいのに好きになれなくて、とりあえず良いと言っておこうというかんじで、紫陽花にずっとおせじを言い続けて生きていた。そういうおもいは結構最近まであった。でも、いまはやっとよさがわかった。このあいだ、インスタだかタンブラーだか忘れたけど、しらない人のを見ていたら「紫陽花のスイミー的なところが好き」と書いている人がいて、そうかーと納得した。紫陽花はスイミーとおもえば良いんだ。そうおもうと、脳みそにもブロッコリーにも見えなくなって、ひとつひとつの花弁がしっかり見えて、かわいくおもえた。

いつだか男の子に、「紫陽花がいちばん好きなんだ〜」と言われて、なんだかその人はそういうことを言わなそうな人だったから、すごく、勝手にうれしかった。でもその人は、「でも、紫陽花ほど枯れ方がきもちわるい花ってないよね」と続けた。枯れ際が、潔くないよね、と。それを聞いて、笑ってしまった。たしかにそうだ。花は枯れるときだいたい散るけど、紫陽花は散らずにその場にいるままにして、どんどん色がなくなってしわしわになっていく。自分をきれいなままにしていなくなるんじゃなくて、汚くなってもずっといる。それに気がついて、もっと紫陽花が好きになった。

さいきん、好きとか楽しいとかそういうしあわせなおもいは一瞬で、すぐおわってしまうものだということがわかった。一つのものをずーっと、一定的に好きでいるのなんて無理だ。好きな音楽が合わない気分の日はあるし、お気に入りの洋服が似合わない日だってある、ということ。ほんとうにしょうがないこと。だからお互いに好き好き同士のカップルだってケンカするし、わたしの父と母もケンカするし、それがそもそもふつうなんだ。ずーっとずーっと楽しいってなってる人は、自分に嘘ついてるだけ。

紫陽花はもうすぐ枯れる。