タイトルなし

今日はたぶん、お母さんが11時くらいに一回起こしにきて、今日の予定は?と聞いてきた。布団の中でもぞもぞ、今日はなんもない〜と答えて起きようとしないわたしに、お母さんはイライラしたみたいで、ふん、なら勝手にどうぞ、という代わりにガチャンとドアを閉めた。それからまた寝て、12時半くらいに起きた。まだ半分寝ていたけど、忘れないうちにツイッターに今日の夢をメモした。

大学の友達何人かと同じ予備校に通っていて、もう閉館の時間になって外で一緒に帰る友達を待っていた。でも友人の一人がなかなか出てこないので、わたしが探しに行く。館内に入ると警備員さん?みたいな人が高校の部活の友達で、事情を説明したら一緒についてきてくれた。真っ暗な教室の電気をぱちっとつけると、その友人がちゃんと席に収まってうとうと寝ている。もう帰るよーと言って起こして、戻ろうとすると、警備員さんである高校の部活仲間がちょっとこっち来て、と言う。ついて行くと、これ、今日のお弁当の残り、からあげ、あげる!と言ってわたしにくれようとする。お腹が減っていたのか、わたしはよろこんで食べる。おいしい!なんかからあげというよりチキン南蛮みたいなやつだった。たるたるソースみたいなのをつけて食べた気がする。みんなそろったってなって駅まで帰るとき、なぜか友人たちは道路の反対を歩いていて、わたしは知らない男の子と二人で帰っていた。その人とはお互い初対面で、現実では会ったことのない人だったしもう顔忘れた。けっこう話しやすかったし感じが良かった。その人は友達の友達で、その共通の友達の話をしていた。その話をしながらわたしはその男の子が誰かに似ている、だれだろうとずっと考えていた。メモには同じ高校の○○くんに似ていた、でもそれよりはかっこよかったと書かれていたけどもう忘れちゃったから何とも言えない。というかその似ていた○○くんとはクラスも同じになったことないししゃべったことない。なんなんだろう。男の子と歩いていると途中に雑貨屋さんみたいな古びたお店があって、路面にポストカードが出ていて一緒に見た。どれも全部、色味の少ないパウル・クレーの絵みたいなやつだった。この辺で目が覚めた。長い割にとくに何もない夢。昨日の夢は、自分が中国の貧しい地区に住んでいて、みんなトイレであへん?なにかはわからないけどとりあえず法的に違反している薬物をやっていて、自分もなんの疑問も持たずやっていて、でもやったあとに水を飲むとかあーっとのどが焼けそうに痛くなるのがリアルに感じとれて気持ち悪くなった。小さい子たちはそれが嫌で泣いていて、でもその親たちがこれは体にいいのよ〜っていってやらせていた。へんな夢。最近へんな夢が多いと思ったけど、夢って全部変かも。

起きてリビングに行ってこたつに入る。朝ご飯お雑煮だったんだけど、食べる?と聞かれてお雑煮を食べた。お正月でもないのに豪華だなあと思ったら、今日は弟の受験だからだった。だからお母さんは仕事も休みをとって、朝から朝ご飯やらお弁当やらをバタバタ作っていたみたい。がんばれの一言も言わずに、昼までグーグー寝てる姉でごめん。明日はちゃんと早起きしてお見送りしよう。そのあとお母さんと一緒にいくつか録画を見た。見終わったら鳥がやっていて、お母さんがこれ観て鳥が嫌いになる人多いらしいよ〜と言っていた。ヒッチコックのやつ。知らなかったからこんど借りてみてみよう。そのあと部屋に掃除機をかけて、ベッドの上でなんか読んだり書いたりしていたら、弟が帰ってきて、お父さんが帰ってきて、晩ご飯を食べてお風呂に入って友達とくだらないラインをして、これを書いた。

今日は久しぶりに一日暇で、いろいろと溜めていたやらなきゃいけないことをやろうと思って、昨日の夜リスト化したんだけど結局一つもやっていない。10個。そのうちの半分は、手さえ付けはじめれば10分で終わることなのにどうしてもできない。そうやってまた2週間とか3週間とか過ぎていく。やることの一つに、白のセーターのしみを落とす、があって、もうそろそろやらないと沈着しちゃう(もう遅いかもしれない)からそれだけやって今日はもう寝よう。

自分のぼろぼろビニールについて

処女とは私にとって、新品だった傘についたまま、手垢がついてぼろぼろに破れかけてきたのにまだついてる持ち手のビニールの覆いみたいなもので、引っ剥がしたくてしょうがないけど、なんか必要な気がしてまだつけたままにしてある。 

 綿矢りさ勝手にふるえてろより。

わたしは処女だから、そのことで何かしらの一定のラインを引いていて(まわりからも引かれていて)それが自分を守ってくれているように感じるときがある。飲み会で酔っぱらってどんな下品な話をしたとしても、このことで、自分もそのまわりの人もなかなか踏み込めないようになっているのではないか。だからもし自分が適当なだれかとセックスしてしまったら、この均衡はぽろぽろと崩れてくる気がする。例えば、今、仲良くしている男の子の友人たちとも変な感じになってしまうかもしれないし、合コンに行ったときも、ただのビッチ枠になってしまうかもしれない。こんなことを考える自分は意地汚い感じがする。なんかずるい。罰が当たりそう。でも、こういうことを考えたらやっぱり、自分にはまだ必要なものなのだと再認識する。いらないいらない、あと何年処女だったら死ぬとか言いつつ、結局のところ、自分で大事に大事にかわいがっているんじゃないか。このぼろビニールに守ってもらっているんでしょう。まわりからみたら邪魔でなんで剥がさないの?って思われているかもしれないけど、わたしにとってまだこれは大事なもの。勝手に剥がされたら困る。

でも、実際のところ、どうなんだろう。よく遊ぶ男友達と変な感じになったり合コンでビッチ枠となるのは。すごく楽しいのかもしれない。もちろん、まわりから見て良いことではないということはわかるけど。大学の友達でそういう感じの子いるけど、普通に仲良くしているし。高校の頃の友人に話したら引かれて敬遠されそう、とか、両親が知ったら悲しむとか。ご先祖様に申し訳ないとか。もっと物理的な問題で、病気になるとか。そんなことより自分がどんどん空っぽになっていくのかなあ。そんなことしていなくても、十分空っぽなときもあるんだけどなあ。最近、山本直樹とかそういうマンガを好んで読むのでよくわからなくなってしまった。

でもでも、次の誕生日が来たら、ぜったいに好きな人を自分の中で好きな人と認めて(好きな人中学3年からいないと言ってはいるが、だれにも話していなかったから好きと気付かなかっただけで、今思うと実際は、ああ、あの人のこと好きだったなあってのはいくつかあるから、自分でその人のこと好きだってちゃんと気付いて認める)、現実的に行動に移して(ネトストばかりじゃ本当になんにもならない)、アピールして(今の自分はあの人に会いたいなと思っても、その人にラインすらできない)、つき合って(ずっと仲良くしていたいから、つき合うとどうせいつかお別れしちゃうからこのままの関係にしておこうとか、なし)、そして、やさしくおんぼろビニールを剥がしてもらいます。



 

 

疲れた

疲れた疲れた疲れた。もう、一人でいるとあれこれどうでもいいことばかり考えてしまって、疲れる。友達と遊ぶかバイトに行くかしないと自分が壊れそう。バイトには昨日も行って明日も行くけど、バイトのない今日のほうが疲れる。本を読んでもマンガを読んでも音楽を聴いても、頭の中で何かを考えて、自分がずっと誰かと話している。疲れる。インスタを見るのはもっと疲れる。自分より華やかで楽しそうでかわいい人のかわいい写真、疲れる。友達の今日行ってきたカフェ情報飲み会のガヤガヤ良いと思った音楽小説漫画映画の紹介、うるさいうるさいうるさい。どうでもいい疲れる。かわいい美大生の楽しそうな写真たち、うらやましくて疲れる。もう何も見たくない。でも本当の自分はそういうことがしたいんでしょう。

自分の中にはたくさんの女の子がいる。おじさんや男の子もいるが、何種類もの女の子のほうが、よく、出てくる。ひとつのことに対して、いいよやんなよっていう子と、いいややめといたほうがいい、っていう子。その二人のバトルにつき合わされて、本当に疲れる。こういう矛盾した気持ちは何事に対してもあって、いつもいつもあって、疲れてしまう。その二人は、天使と悪魔というよりは、普通の女の子と少し性格の悪い女の子である。性格の悪いというか、ひねくれている、と言ったほうが良いのかもしれない。具体的に言うと、例えば、自分がかわいく撮れた写真を、ラインのアカウント画像に設定したがる人がいる。設定しようとして、画像を選んでまるの中におさめようとした瞬間に、いやいや、そういうのナンセンス〜と言ってくる人が出てくる。そういう画像アカウント画像にしたがる女子、いるよね〜っと言ってくるやつ。さすがに自分のピンの顔アップの自撮り写真をアカウント画像にしたがる人はいないけれど、だれかに撮ってもらったちょっと下向いている写真みたいな、思いっきし自分かわいいは否定しつつの控えめな自分かわいい主張をしたがるやつはまだまだ自分の中にいるのだ。その子は、友達と派手に遊んだことを主張したがったり、自分の見つけた良いサブカルみんな知らなそうマンガや、最近読んだ小説、見たミニシアターでしかやってない系映画、自分が行ったインディーズで活躍するお洒落サブカルバンドのライブやCD、ちょっとコアな難しい美術館の展示をインスタにあげたがる。実際にそいつに憑依されたまま、そういう写真を公開することもあるけれど、あとになってやっぱり消したくなってくるものだ。そういうものをSNSに投稿しだしたら、なんだかその、投稿することが第一の目的になってしまっているようになる気がしてしまうから。マンガや映画や音楽を「自分を着飾る物体」にしてしまっている気がする。それらは、その中身に本質があるものなのに、その外身だけをいっぱい集めることに意味を見いだしている、そんな気がするのだ。こんなこと考えている自分が、一番めんどくさいというのはわかっているのだけれど。

SNSが発達したおかげで、この今の世の中は、みんなが自分自身の「どうでもいいこと」を簡単に主張しやすくなった。それは、どんなつまらない人間でも簡単にできる。それっぽい文章をぽちぽちと画面に入力し、それっぽい写真を選んで並べれば、簡単にそれっぽくなる。他人から見える自分を簡単にデザインできるようになったのだ。もちろん、便利で楽しいこともあるが、なんだかなあと思うこともある。好きな人の家に行って、彼の部屋の本棚やCDラック、クローゼットを見なくとも、彼が最近読んだ本やマンガ、よく聴く音楽、買った洋服も簡単に分かってしまう時代。みんな、見えるものからまず見るものだ。どういう人なのだろう?と他人について考える時間が減ったのではないか。なんだかさみしい。大好きな友達や、昔好きだった人のことを、ああ、今何をしているんだろう?何を考えているんだろう?と、思うよりも、ツイッターやインスタグラム、フェイスブックから読み取れる、その人自身が「見せたい」情報を受け取ることに夢中だなんて、さみしいし、薄っぺらい。

逆に言えば、他人から見える自分は、自分が見せないと見えないようになったのだと思う。わざわざ、見せて?と言ってくる人はなかなかいないのではないか。自分が興味のあるものや好きなものは、どんどん自分からアピールしていかなければ、そのことをみんなにわかってもらえない。だから、わたしも我先にと、みんな知らなそうマンガ最近読んだ小説ミニシアターでしかやってない系映画インディーズサブカルバンドちょっとコアな美術館の展示を、利用しなければ、と思ってしまうのだ。でもそれは、ネット上に放たれた瞬間、空っぽになるように感じる。どんなにハートマークやイイネをもらっても、埋まらないくらい空っぽ。それでも、こんなことは言っても、自分より先にそれっぽい人にみんな知らなそうマンガ最近読んだ小説ミニシアターでしかやってない系映画等々を発信されたら、わたしのほうが先に知ってたのにいいっっっ…!と悔しくて悔しくてヒーヒーなるのだ。これも、矛盾。疲れる。

ちなみにこの記事は、自分の中にいるサブカルひねくれクソ女にすべてゆだねて書いた。 だから実際の現実のわたしは、こいつを阻止しようとする普通の女の子のおかげで、もうちょっとは可愛げがあるはずである。

 

例えばの話

例えば、自分に彼氏ができたとして、なかなかかっこいい彼氏ができたとして、そしたらやっぱり、インスタグラムに写真をあげたくなるんだろうか。似たようなスニーカーを履いている日にはその足元を、一緒に写したくなるんだろうか。カフェに行って向かい合って座ったら、ブレンドコーヒーをブラックで飲むその手元の写真を撮りたくなるんだろうか。いつもは一人でする井の頭公園の散歩も、そのあとにマルイの無印でいっぱい試着するのも、彼氏と一緒にできるのかな。いいなと思った音楽も、映画もマンガも本も洋服も写真も全部、これ良かったよ〜って紹介できるのかな。子どもの頃抱いていた疑問とか、お母さんに言われたこととか、最近やったおっちょこちょい話とか、そんなどうでもいい自分の話もできるのだろうか。そんなことをなかなかかっこいい彼氏とできたら、やっぱり自慢したくなるのかな。自慢したくなって、インスタに写真あげて、高校の友人たちにばれて、照れ笑いでもするのかな。バイト先の人に、やっと彼氏できたんですよお〜って言って、写真見せて写真見せてって言われて、えええ〜〜全然、かっこよくないですよお!って言いながら一番かっこ良く撮れた写真を選りすぐって見せるのかな。そしてきっと1か月くらいたったら、彼の家に泊まりにいっていっぱいキスしてセックスして、心臓がとれそうなくらいバクバクして、ああ自分、しあわせだあって思うんだろうな。自分と彼氏以外の人のことなんてどうでもよくなるんだろうな。弟の受験のことも、友達の失恋も、いまよりもっとどうでもよくなる。

でも半年くらい経ったらお互いに慣れてきて、彼がなかなかかっこいいということにも慣れてきて、ドキドキしなくなったわあとか友達に言うんだろうな。キスもセックスも前より自然にできるようになったけど、きっともうその行為は、二人をつなぎ止めるために必要なこと、みたいなものになってるんだろうな。子どもの頃抱いていた疑問とか、お母さんに言われたこととか、最近やったおっちょこちょい話とかそういう話題も減ってきて、その代わりにどうでもいいことにイライラして、そのイライラが伝染しあったりしちゃうんだろうな。そしてちょうどその頃に、彼にかわいいバイト先かなんかの後輩の女の子が近づいてきて、自分には内緒で二人で飲みに行ったりするんだな。わたしはもともとそんなにかわいくないから、彼は、なんであんなやつとつき合ってるんだろう、こっちの子の方がいいやってなるんだろうな。そうして振られる。振られてまた一人になって、また一人で井の頭公園を散歩して、いつも見かけていた大きな犬を見て、あ〜今日もいたねえ、ほんとだかわいいね、って言ってた自分を思い出す。初めて彼の家に行って、心臓がとれそうなほどドキドキして抱かれたことを思い出す。そういうことを思い出してきっと一人で家で泣く。インスタグラムにあげた彼の破片も、全部消す。あの時あんなこと言わなきゃ良かったとか後悔する。いっそのこと死にたいって思うのかな。それか、もう自分の中で、なかなかかっこよかった彼を、大好きだった彼を、救いようの無い悪役に仕立てて友達にあいつありえないって陰口たたくのかな。友達に、よかったよ、そんなやつ、別れて正解って言われて、だよねだよね、そういえばあいつさあ〜って、つき合っていた頃はちょっとクセのあるところが好きと言っていたものを、否定しだすんだろうな。そんなことを言って元気になりながら、自分のみじめさに泣くんだろうな。

自分が一瞬でも大好きになった人のことを嫌いになるんなら好きにならないほうが良いと思ってしまう。せっかく好きになった人がいるんなら、その人とはずっと、その安定した好意を抱ける距離感を保っていれば良いと思う。かっこいいバイトの先輩は、困った時に助けてくれるスーパーヒーロー先輩のままでとっておいたほうがいいし、たまに行くスタバのイケメン定員はたまに自分を癒してくれる目の保養定員さんのままでいい。二人で飲んで楽しい人とは二人で会ったときに楽しく過ごせれば良いの。そういうふうに自分に言い聞かせて人を好きになるのを避けてきたら恋愛できなくなった。

 

今日はなかなか良い日

1限に行こうと思って8時に家を出る。この時間に家を出ても既に30分遅刻だ。でもこの授業、今日はたしかグループワークだったから、友達に謝ればいいやと思った。

駅に着いたら人があふれていて、ああ、今日も遅延か、と思った。こんなにも住人がいたものかと感心してしまうほど人がいた。とりあえずホームに停まっていた電車に乗る。しかし動かない。電車の中の暖房から出る暖かい空気が、乗客のいらいら、そわそわとした熱気と一緒になって、いやなにおいを発する。押しボタン式のドアによって閉じ込められたぎゅうぎゅうの車内は、我慢大会のようである。会社や学校に行けない人、みんなで、ドアの横のボタンを押して電車から降りて家に帰ってしまおうよ。この中にずっといるとお腹が痛くなりそうだ。

電車から降りる。一つ先の駅までとりあえず歩いた。その駅も人であふれていた。駅中のカフェに入ろうとしたが、満席である。しかたがないのですこし歩いたところにあるカフェに入る。ここもわたしが席についてからすぐに満席になった。

「アイスカフェラテください」

「お席はお取りいただいておりますか?」

あー、この人、この人知ってる。中学校のとき通っていた学習塾で、すこしの間同じクラスだった人。ほとんど会話を交わしたことはないが、この人の進学先の高校も覚えている。いまはどこの大学に通っているのだろうと一瞬考えたが、どうでもいい。そういえばさっき最初に行ったカフェでも、そこの塾で一緒だった人がバイトしている姿を前に見かけた。その人は有名大学の付属高校に受かっていたから、きっといろいろと上手くいっているんだろうな。

注文したアイスカフェラテを受け取り、席についてチューチュー飲む。今日は甘くしたいと思ったからガムシロップを一つと半分、入れた。甘くておいしい。

本を開く。山崎ナオコーラのニキの屈辱。昨日の夜、買ったのにまだ読んでないなと思って、今日の朝かばんに入れた。2時間半ほどで読了。本を読むのはそんなに速くはない。速めたいともあまり思わない。途中で好きなフレーズをアイフォンのメモに残しながら読んだ。とても好きな作品になった。自分が良いなと思う恋愛作品は毎回、ああ、やっぱりこうなっちゃうんだな、という感じに終わる。最後は自分の好きがみじめになって、終わってしまう。自分が長いこと恋愛できていないのは、きっとこうなるのが怖いからである。なんでできないんだろう、と阿呆なほど友達にぐちぐちいうのは、ひまつぶしである。本当はわかっている。でも、どうすればいいのかは分からないし、考えるのも、疲れる。

読み終わったので店を出ようと思う。電車はまだ遅れているのかな、と思ってツイッター路線名を検索する。くやしいけれど、こういうときにツイッターは便利である。まだ止まってる、むかつく、などいらいらしているツイートから、やっとに乗れるってなった瞬間にどうでもよくなったからアウトレット行くwといった、学校さぼった俺、悪い俺、俺、という、隠したいけど隠れきれていない自己承認欲求が丸見えのツイートまでもがヒットする。自分もその、俺、の仲間なのではないかと思ってぞっとした。1分前、32秒前、5秒前、とぞろぞろと並ぶツイートを上にスワイプしていくと、見覚えのある顔のアイコンを見つけた。また例の、中学のとき通っていた塾のクラスメイトである。その人のページに飛んで、画像を見る。中学のときは頭が良くてかっこよかったのに、なんだかチャラチャラになっていた。自己紹介のところには、大学名、サークルの名前と思われる英単語、などがずらずらと並べられていた。へえ、どうでもいいや。なんだか今日は中学校時代の塾と縁深いみたい。そんな日もある。

とりあえず店をでる。帰り際、中学の塾で一瞬一緒だった人に「ありがとうございましたあ、またおこしくださいませ〜」と言われた。マフラーでほとんど隠れている口から、ごちそうさまです、と言って小さく会釈する。

電車はまだ混んでいた。どうしても混んだ電車に乗りたくなかったので、遠回りして学校に行った。着いたのは3限の時間であった。3限に出て、1限のグループの友達に謝る。おい〜なんで来なかったんだよお、さぼり〜。ごめんごめん、遅延やばくてさ、というこの会話するの何度目だろうという会話をする。

授業が終わったのでバイトへ向かう。なんのために学校に来たのだろうと思うが、学校はすこし行くだけでも意味があるように思う。「今日自分は学校に行った」と思わせてくれるから。バイトの前に時間があったので、ブックオフに寄って次読む本を買った。バイトは今日も普通に終わる。

家に帰ると母はもう寝ている。父は飲み会のようでまだ帰宅しておらず、もう帰ってるの?というメールが届いていた。帰ってるよーと返事をするとすぐに、今日の麻雀は散々だった、気分悪い、と返ってきた。それにドンマイ!とだけ返してお風呂に入った。

今日はなかなか良い日であった。

 

 

 

 

好きなものを引き寄せる

最近、好きなものを引き寄せることが多い。とても嬉しいことである。

この間、何か面白いものはないかと思い、趣味の合いそうな人のツイッターのフォローリストをくにくにと見ていた。そのなかで、ある雑誌のアカウントがぱっと目に留まった。こんな雑誌あるんだ、知らなかった、いい感じだな、と思ってツイートを何個か見てみた。リツイートが多く、すぐそのリツイートされたツイートのアカウントに飛んだ。そこからまたそのリツイートのアカウントに飛んで、また飛んで、ということを何度か繰り返した。

次の日、学校の帰り道に、いつもは寄らない本屋さんに寄ってみた。ずっと寄ろうと思っていたのだが初めて入った。やはりとても良いなあ、と10分ほど店内を見て回る。ある一冊の本がぱっと目に入る。エッセイ本である。なんかいい感じだな、この著者知らないな誰だろう、と思い、手に取ってみる。表紙の裏をめくってみる。簡単に書かれたプロフィールを見ると、歳は自分よりだいぶん上であるが、通っている大学の卒業生であった。そのとき、自分の中で何かが興奮したのが分かった。くだらない。自分の大学はそれほど好きでないし、人に大学名を言うことだってできればしたくないくらいである。愛着も母校愛もないはずであると思っていた。しかし、この本の表紙の裏に自分の大学名を見つけてとても嬉しくなったし、この本と著者に対する関心も、ぐいーん、と高まった。同じ学校、同じ出身、同じ年齢、同じ血液型、「同じ」ということはどうしてこんなにも人と人との距離を縮めるのだろう。ほとんどすべてたまたまであるし、だからといって特に意味はないはずなのに。不思議である。それにすこし、気持ち悪い。そんなこんなで、その本に興味を奪われ購入しようと思ったが、今は他に読んでいる本がいくつかあったのでとりあえず今回は買わずに店を出た。いつか絶対に買うが。

そのまま学校から駅に向かって歩いていくともう一軒本屋がある。ここの本屋はしょっちゅう寄る。その日も寄った。入って一番目立つ場所に、ある雑誌があった。その売り場に近寄ってみると、昨日ツイッターで見つけたアカウントと同じ名前であった。これこれ、これかあ、と嬉しくなって顔がほころぶ。手に取りぺらぺらと中を見てみると、つい5、6分前に見ていた名前が。さっき寄った本屋で手に取ったエッセイ本の作者である。しかもその人はいくつものコンテンツに渡って登場している。表紙に戻ってみると、特集、とその著者の名前がでかでか書かれていた。これは絶対に今買うべきだなと思い、もう一冊買おうと思っていたカルチャー誌と一緒にレジに持っていった。

我慢できず、電車で開く。なんとなく目に留まった対談を読み始める。例の大学の先輩のエッセイストととある漫画家の対談。今日知ったばかりの人でも、この一連の偶然の重なりの中で、自分にとってはもうすでに「好きな人」になっていた。まだ一冊も著書は読んでいないのに。対談相手の漫画家も初めて見る名前であった。こんなにも知らないものだらけで、自分のことを恥ずかしく思った。対談には、いつも利用する大学の最寄り駅近くの飲み屋やラーメン屋の話題があがっていたりと、仲間にはいれる話題が多く、吸い込まれるように読み入った。

家に帰って、寝る前にベッドの上で、この間買ってまだ読んでいなかったマンガを読む。短編集かつ作者のエッセイマンガというようなものである。そのうちの一コマに、またもや見覚えのある名前を見つける。先ほど読んでいた、対談相手の漫画家である。さすがにすごいなと思って、にこにこしてしまう。そのうちの誰一人とも顔を会わせたこともないし、自分の存在すら知られていないのに、その人たちの住む世界にいれてもらえたような気がして嬉しくなった。

こういう喜びはどうやっても自分の中でしか感じることができない。この話を誰かにしたとしても、自分が味わったほどの興奮を分ちあえることはない。自分の中で、静かに、くうー、と喜びを噛み締めるものである。

ほかにもいくつかこういったエピソードを書こうと思ったのだが、疲れてしまった。話したい、書きたい、とは思うものではあるがやはり、こういうものは自分の中で処理するのが一番良いようである。