長い日記

今日の夢は、テレビ番組の「大学生カップルお見合い企画」みたいなのに参加する夢だった。さいきんしばらく会っていない高校のともだちと一緒に参加していて、5:5くらいのわりかしこじんまりしたやつだった。その企画の内容は、一日中その男女でどこか田舎の列車にひたすら乗って、最後に野外上映の映画をみんなで見るというもので、とくに無理やり二人ずつにさせられて話すとかはなくて、どちらかというとテラスハウスてきなかんじだった。自分はその企画に参加しながらも、「いまのこのシーンがテレビの中のタレントさんたちにああだこうだいわれるんだろうなあ」とかいう冷めたことをずっと考えていて、とくにたのしめなかった。でも、その最後の野外上映のときに、一緒に参加したともだちが、わたしの目の前でよこで見ていた男の子とキスをしていて、それを見てあせり、くやしくなっていた。映画がおわったあとも、そのともだちは何事もなかったかのようにしれ〜っとしていて、夢の中で、なんなんこいつとおもった。で、映画がおわったあと、最終的にいいとおもった人の名前を紙に書くんだけど、とくにこれといっていいかんじの人がいなくてなかなか書けなくて、もういいやとおもって、背はあまり高くないけど見た目がおしゃれでいちばんかっこよかった「佐藤くん」の名前を殴り書いた。下の名前もちゃんとあったけど、わすれてしまった。名字は確実に、佐藤であった。顔ははっきりおぼえているけど、佐藤くんは現実世界で見たことない人だった。ともだちとキスしていた人もしらないひと。そういえばきのう見た夢も、またべつの高校のともだちと合コンに参加する夢だったんだけど、そこにいた男の子も全員会ったことのない人だった。その合コンでは、いちばんうるさくて騒がしくて、なんか好きじゃないなあとおもった人にねらわれてしまって、嫌で嫌でトイレに逃げこんでいた。そういう夢に出てくる、見知らぬだれかはいったいどこから生成されているのだろう。じつはもう会っている人なのか、それともこれからどこかで出会う人なのか。まったく関係のない人なのかもしれない。まあでも、夢の中の人に恋をしてしまったわけでもないから、どうでもいい。

今日は三限がテストで、その授業はほとんど出席していないのにぜんぜん勉強していなくて、持ち込み不可だし、朝早めに起きて勉強しようとおもっていたのに、いつもどうりになってしまった。きのうのよるは今日の四限のゼミのレジュメ作りに追われていて、結局それも3時半くらいまでかかったので、まあ起きれるわけはなかった。それでも三限まではそこそこ時間があったので必死にやればたぶん勉強はまにあったけど、ふつうにCDをかけてシャワーを浴びたりし、ゆっくり準備をしてしまった。

今日は暑かった。駅まで歩いている途中で、ネバヤンを聴こうとおもってipodをくるくるいじっていたら電池が切れた。最悪だとおもった。しかたないので、そのまま蝉のなき声を聴きながら歩いた。やっと駅に着いて改札の前に立ったとき、定期をわすれたことに気がついた。ベンチにかばんをおいてしっかり探してもやっぱりなくて、ほんとうに最悪だとおもった。わたしは高校生のとき、部活の練習に寝坊して遅刻したときに「定期わすれちゃって、家にとりに帰って〜えへへ」みたいな嘘を何回かついたことがあるけど、これは実際にやるとわすれちゃったえへへ〜みたいなテンションで言えるようなことではないとはっきりわかる。めちゃめちゃくやしくてめんどくさいし、自分をぶん殴りたくなる。次この嘘を使うときにはもっともっとくやしがらないとだめだとおもった。財布をみたらお金もぜんぜん入っていなくて、定期がないと交通費がそこそこかかるので、とりに帰ることにした。走って走ってしんどいし、暑くて暑くて、ほんとうにイライラした。

やっと学校の最寄り駅に着いたときには、試験開始の10分前で、いいタイミングでバスに乗れば5分でつくからまにあうんだけど、そういうときにかぎってちょうどバスは行ってしまったあとで、7分くらい待たないと次のバスは来ない。最悪だ。もうがんばるしかないとおもって、ひたすら走った。また暑くてしんどくて、ipodもないし、こんなにも不幸が重なっていやになって泣きそうになった。勉強もしていないし、もうぜんぶやめたかった。走りながら、今日はほんとうについてない日だと確信した。でも、こんなに嫌なことがあったんだから、次はいいことがあるはずとおもって、きっとテストが意外とかんたんで、そんなに勉強していなくてもできるんじゃないかとおもった。ポジティブといえばそうかもしれないけど、一方で、学校に行く満員電車でたまたま、立っている自分の前に座っていた人がここで降りんの?みたいな駅で降りて、自分がすんなり座れてしまうとその日一日これからなにか嫌なことが起きるにちがいないとおもって、ラッキーとおもうよりもなんだかおびえてしまう。これは、子どものときによく見てた、天才テレビくんでエンディングにかかっていた「いやなことがあったらいいことがある〜順番にくる〜」みたいな歌の影響だとおもう。どんな歌だったかいまはもうおもいだせないけど、はじめて聴いたとき、ほんとうにそうだ!と強く感動したことはおぼえている。この歳になっても、刷り込みみたいに、まだまだ染みついているみたい。

結局テストはぜんぜんできなくて、たぶんだめだった。しょうがない。論述試験で問題は選択式だったし、いけたかとおもったけど無理だった。あまかったことを反省している。こんなにできないならあんなに一生懸命走る必要はなかったし、そういうことをかんがえたらまた今日の自分にむかついた。四限のゼミの発表もレジュメがんばったわりにあまりうまくできなかったし、今日はほんとうの厄日だとおもった。だから、とにかくはやくうちに帰りたくて、明日も提出の課題があるし、ほんとうに自分は性格が悪いとおもうけど、今日はともだちと飲みに行く約束をしてたんだけどそれを断ろうとおもった。でも、じゃあ飲みはやめてごはんにしようと言われたので、とりあえず、図書館で課題をしながらともだちの五限がおわるのを待った。待っているうちにいろんなことがどうでもよくなって、課題ももうまた帰ってからでいいやとおもえて、結局ともだちとごはんを食べにいった。そうしたら、そこからの時間は、今日いちにちの自分最悪とおもったぶん以上の自分最高とおもうことがおこって、結果的に今日はほんとうに良いいちにちになったとおもえたというはなし。帰りの電車の中では、なんだかこころがあたたまりすぎて泣きそうになったし、なんかいも自分は自分でよかったとおもった。さいきんに起こったいやなこともいいことも、どれも自分に必要なもので、それがあったからいまの自分があるわけで、きっとそれはこの先も同じで、だから大丈夫なんだとおもえた。

それでも、だから、次は嫌なことの番だということはわすれていなかった。だからきっと、朝、定期をとりに帰ってまた駅に戻ってきたとき乗ってきた自転車が撤去されているにちがいないとおもった(今日はちゃんとお金を払うところじゃなくて、ちょっとずるいところにとめてきてしまっていた)。電車から降りて、いそいで自転車置き場にかけよると、ぽつんとわたしの自転車はちゃんとあった。それをみて、あ〜今日はほんとうにいい日だなあと、にまにましながら自転車にまたがった。夜の音をしずかに聴きながら、わざとぐにゃぐにゃ蛇行するように自転車を漕いだ。ipodの電池がないのもぜんぜん気にならなかった。

マンションに着いて、自転車置き場に自転車をとめようとしたら、自転車置き場の下の段がひとつも空いていない。下段がいっぱいなことはそんなにないのに。うちのマンションの自転車置き場は、上段と下段にわかれていて、下段にとめるのはすんなりいくんだけど、上段にとめるのには、一度自転車をとめて、上にある自転車を入れておくところをひっぱって出して、そうするとそれがななめに出てくるので、そこに自転車を入れて、また上にもどさないといけない。とにかくめんどうくさい。背がちいさいわたしにとってはたいへんな力作業であるし時間もかかるので、ほんとうにやりたくないことであった。しかも朝はその下段から自転車を出したわけで、今回上段にとめたらこんど自転車を使う時は、その入れる作業の逆をしないといけない。めんどくさい。

その、自転車がいっぱいの自転車置き場の下段を見て、ため息が出て、また最悪だ、今日はついていない、とおもった。

 

紫陽花

小さいころ、紫陽花はかわいくないとおもっていた。お花は、ひとつでころんと咲いているのがかわいくて、細い一本の茎に支えられているその、か弱そうな感じとか、雑草の緑や土の茶色にぽつんと映えるようにそこにある、そういうのも含めてお花のかわいさだとおもっていた。紫陽花は、小さいお花がたくさんいっぱい一緒になって一つで、それが一つの根からいくつも咲いているから、ちがった。脳みそにも見えたし、ブロッコリーやカリフラワーぽくもあった。「あじさい」という発音もかわいくないとおもっていた。チューリップとかタンポポとか、さくらとかはかわいいのに「あじさい」って、濁点もあるし地味である。でも、わたしはなにかと紫陽花と縁があって、幼稚園のときにも母が作ってくれる座布団とかなんとかいれとかにはよく紫陽花の刺繍がしてあったし、大人の人によく紫陽花の話をされた。だから、好きになりたいのに好きになれなくて、とりあえず良いと言っておこうというかんじで、紫陽花にずっとおせじを言い続けて生きていた。そういうおもいは結構最近まであった。でも、いまはやっとよさがわかった。このあいだ、インスタだかタンブラーだか忘れたけど、しらない人のを見ていたら「紫陽花のスイミー的なところが好き」と書いている人がいて、そうかーと納得した。紫陽花はスイミーとおもえば良いんだ。そうおもうと、脳みそにもブロッコリーにも見えなくなって、ひとつひとつの花弁がしっかり見えて、かわいくおもえた。

いつだか男の子に、「紫陽花がいちばん好きなんだ〜」と言われて、なんだかその人はそういうことを言わなそうな人だったから、すごく、勝手にうれしかった。でもその人は、「でも、紫陽花ほど枯れ方がきもちわるい花ってないよね」と続けた。枯れ際が、潔くないよね、と。それを聞いて、笑ってしまった。たしかにそうだ。花は枯れるときだいたい散るけど、紫陽花は散らずにその場にいるままにして、どんどん色がなくなってしわしわになっていく。自分をきれいなままにしていなくなるんじゃなくて、汚くなってもずっといる。それに気がついて、もっと紫陽花が好きになった。

さいきん、好きとか楽しいとかそういうしあわせなおもいは一瞬で、すぐおわってしまうものだということがわかった。一つのものをずーっと、一定的に好きでいるのなんて無理だ。好きな音楽が合わない気分の日はあるし、お気に入りの洋服が似合わない日だってある、ということ。ほんとうにしょうがないこと。だからお互いに好き好き同士のカップルだってケンカするし、わたしの父と母もケンカするし、それがそもそもふつうなんだ。ずーっとずーっと楽しいってなってる人は、自分に嘘ついてるだけ。

紫陽花はもうすぐ枯れる。

 

傘がない

電車のまどに描かれるななめの点線を見て、傘がないことをおもいだす。もう止んでいるとおもっていたのに、また降り出したみたいだった。雨に濡れるのはけっこうきらい。意味もなく悲劇のヒロインを演じているみたいで、ばからしい気がする。最寄り駅に着いて電車から降りると、ホームの隙間から雨が吹き込んでいて、嫌だなあとおもった。駅の階段を下りて、周りの人たちが傘をさすために一度立ち止まるところで、なにもないけどわたしも一応立ち止まって、雨の中を歩き出した。

歩きだすと、雨はおもっていたよりつよかった。すぐに、どんどん濡れた。自然と小走りになった。チャックのついていないトートバックと、父の日のプレゼントが入った無印良品の紙袋を持っていたんだけど、気づいたころには無印の紙袋はもう色がほとんど変わっていたから、あわてておなかでかかえなおした。そのうちにくつのなかにも雨が入ってきて、きもちわるくなってくる。そうやって走りながら、頭の中ではだいぶんむかしにNHKで見た、日常の実験みたいな番組で、傘がないときは走ると歩くよりも濡れないのか?みたいな実験を、ざ・たっちのふたりがやっていたのをおもいだしていた。ざ・たっちの片方が、雨の中を歩いて、同じ距離をもう片方のざたっちが走るというやつ。たしか、その洋服についた雨の量を量ったら結局どっちも変わらないとかだった気がして、つかれてきたし、もう歩こうかとおもう。でも、おなかにかかえた紙袋がびしょびしょで紙紐の持ち手のところが破けてきたので、中身もそろそろしみてくるのではとおもって、足を止めようとしたのをやめて走り続けた。このあたりで、シャッフルで聴いていたiPodからラモーンズがかかりはじめて、悲劇のヒロイン気分とはぜんぜんちがったのでとばしたかったけれど、立ち止まれないし、かばんの中でiPodがどこにあるのかわからなかったから、がまんしてそのまま聴きながら走った。駅から家までは歩いて10分くらいだから、走るのは余裕なんだけど、一度もとまらずに走り続けたのはえらいとおもう。朝も電車に間に合わなそうになって走ることはしょっちゅうだけど、たいていとちゅうであきらめて、わざとよけいにゆっくり歩き出すから、自分においてはなかなかすごいことだった。とちゅうから、自分のシャンプーのいいにおいがして、たのしくなった。

ただいま〜と玄関のドアを開けると、おかえりという声よりも先に、リビングのほうから「濡れちゃった?」と母の声がした。「びしょびしょになった」と返事をして家に上がる。父はもう寝ていたから、父の日のプレゼントは、ぼろぼろの紙袋からそうっと取り出してテーブルの上においた。そのままお風呂に入りなよと言われたけど、なんだかんだそのままでいて、お風呂にはやっとさっき入った。あしたは天気予報が何であれ、折りたたみ傘をもっていくこと。

結婚式のメンバー

マッカラーズの結婚式のメンバー、村上春樹の新訳のやつを今日までに読みきろうとおもっていたけど、間に合わなかった。今日は、中学校のとき同じ部活だったともだちの結婚パーティーみたいなやつだった。実際には、ダーツバーみたいなところを一部貸し切って、新郎、新婦のともだちを十何人かずつ呼んだすこし立派な飲み会というかんじで、そこまでたいしたものではなかった。「結婚」感のあったのは、結婚する二人の生い立ちから出会いからプロポーズまでをざっくりまとめたスライドショーが、上の方にある小さいテレビでさりげなく何度も何度も流れていて、そのプロポーズシーンの写真になったらみんなががやがやと茶化す、くらいだった。

できちゃった婚だったこともあって、わたし自身、自分の親に、◯◯に子どもができて結婚するんだって、と言うのに時間がかかった。わたしはべつに、そのともだちと彼氏ががんばって決めたことなんだろうから、それに対してあれこれおもうことはないけど、親たちはちがう。お母さんもお父さんも、わたしの嫌いな嫌な顔をして、えー……あの◯◯ちゃんが?と言うのが目に見えてわかった。それがわたしに対する戒めなのかなんなのかわからないけど、自分にとってともだちをわるく言われているようにおもうし、自分の親がいじわるなおばさんとおじさんに見えてくるからとにかく不快で、なかなか言い出せなかった。今日、当日になっても、わざと話題にふってこない感じがあったし、いつもならわたしがおめかしするのを一緒になって楽しもうとしてくる母親も、わたしの着ていた黒いワンピースを見て「30代の未亡人みたい」と辛口に言ってきただけだった。

集合時間にすこし遅れて、一緒に行くともだちたちと落ち合った。すでに集まっていたうちのひとりの子は、おなかがぱんぱんだった。妊娠しているということは聞いていたけど、もうこんなだとは知らなかったのでびっくりした。その子はもう結婚していて、つい最近に一歳になった子どもがいるので、このおなかの子は二人目。そのおっこちそうな大きなおなかをすりすりさわらせてもらいながら、ここにもうひとつ命があるんだなあ、とかいうよくある台詞を頭の中で棒読みした。今の自分にこれがくっついて、だれかのお母さんになることなんて、どうやっても考えられなかった。そのともだちとわたしは、中学校のときに顔が似ているとよく言われていて、身長も同じくらいで部活も一緒で、双子とかドッペルゲンガーとか言われていたんだけど、気づいたらもう、ぜんぜんちがう人生になった。「中学のころは◯◯とドッペルゲンガーって言われてたのに、すごいなあ。」とわたしが言ったら「ほんとにね〜」と笑っていた。この子以外にも、来ていたなかにもう一人妊娠しているともだちがいて、それは今日聞いたんだけど、あまりびっくりしなかった。逆に、もう、同い年の人がそういうこと(妊娠とか結婚とか)をする歳になったんだなあとおもった。わたしはこのともだちたちよりも、おもしろい本や映画、良い音楽、お洒落な喫茶店、むずかしい哲学者の名前やパソコンの操作の仕方だってたくさんたくさん知っているけれど、好きな人とするセックスの気持ちよさや、男の子のくちびるの感触、家族やともだちとしてではない特別な存在として自分を認められたりだれかを認めたりする安心感はしらない。中学校を卒業してからの時間をこうやってくらべてみると、自分が経験してきたことになんて重要なことはほとんどなくて、まだまだ体験していない大切なことがたくさん残っているとよくわかる。良い高校に入って、そこそこの大学に通うことで自然に用意されていたことなんて、これからの人生においてはどうでもいいことばかりだったのかもしれないとおもった。

わたしもいつかだれかのお嫁さんになってだれかのお母さんになるのかなと考えてみても、いまは何も想像できないけど、なるときはなるときで、このまま、そんなに自分は変わらないままでなっていくんだろうなあとおもった。結婚しないまま嫁とか妻とかになる人なんていないし、子どもができる前に母親になる人なんていない。だれかのお嫁さんになれるのかなとか彼女になれるのかなとかそんなことばかり考えても、実際になってみないとわかるわけないんだなあとおもった。

 家に帰って、親に、どうだった?と聞かれたときのために、旦那さんいい人そうだったよ〜とか、おもっていたよりもしっかりした人だったわ〜、とか自然に言えるようにいろいろ考えていたんだけど、帰ったら母は寝ていて、父もおかえりと言ってきただけで何も聞いてこなかった。ともだちをかばう必要なんてないのに、なんでこんなことをするのかわからないけど、わざわざひとつ前の駅で降りて歩きながら、その旦那さんのよいところを必死に思い出そうとしながら帰った。きっと、いろいろ大変だとはおもうけど、しあわせになってほしいとすごくおもったし、自分もしあわせになりたいとおもった。でも、あたりまえだけど、結局どこか他人事で、自分には関係ないなとおもっていたところもあるから、わからない。

うさピヨにゃーにゃ

このあいだタンスの中を整理していたら、むかしアメアパで買った、すごくすごく丈が短いデニムのミニスカートが出てきた。広げて、いまの自分にあてがってみると、こんなの洋服じゃない・・とおもった。もう履けないし、こんなのを良いとおもっていた自分がいたことにおどろく。はずかしかった。自分はどんどん変わっていくなあ、とおもった。わたしは、いつも自分のことを好きになれないけど、むかしの自分のことはもっと嫌い。とりあえずこのころの自分よりは今ましだわ、とおもう。なりたい自分はいつもとおくて、たぶん永遠に自分に満足なんてできないんだとおもう。

大学生になって、自由に使えるお金や時間がふえたことで、やっと自分のほんとうに好きな物がわかってきた感じはある。映画でも音楽でも、はやりとかまわりのともだちにまどわされない、ほんとうに良いとおもうもの。最近は、洋服も、季節にごとにほしいものをすこし買い足すくらいで、去年のままほとんど着られるし、むしろそれが楽しくなっている。春になれば、今年もこのワンピースの季節になったな、とか思うし、秋にはタンスの奥底からセーターをひっぱりだして、柔軟剤のいいにおいにしんせんなきもちになる。ちょっと前までは、去年のその季節に着ていた服のセンスのなさに毎年がっかり、去年の自分にどん引きしていた。着たくなくなった服は、部屋着に成り下がるか、捨てるか、だれかに譲るかリサイクルショップに売るかしていたけど、もうそんなことはしなくなった。

こうやって、だんだん落ち着いていくんだろうか。そのうち逆に、今の自分よりもすこしはむかしのほうがましだった、とでも言うように、あのころはよかったな、20代のあのころの自分に戻りたい、とでもおもうのか。若い頃はたのしかったわ〜とかべちゃくちゃ言ってるおばさんの仲間入りか。過去の自分を好きになれるのはいいけど、そればかり言うのは醜いだろうなとおもう。

それから、自分が変わったのに、それを自分以外のせいにするのはよくないとおもう。すごくきらい。自分が好きになった人のことを嫌いになった(または、自分のことを好きになってくれた人に嫌われてしまった)のは自分がなにかしら変わったからなのに、それを、なんかやっぱり合わなかったんだよね〜とか言うなよ、とおもう。たのしいたのしいって言ってじまんしていたサークルの活動とかバイトとかをやめるときに、ぼろくそ悪口を言うなよ、とおもう。もちろん他人のせいのこともあるけど、たいがいはそういうのを後付けの理由にして、自分の良いように言う。でも、わたしは、そうはおもっているけど、タンスの奥から見つけ出されたミニスカートを履いていた自分をなかったことにしたい、とおもったように、そういうことは、おもっているよりも自然に言ってしまっている。ともだちからしてみれば、「いや、このあいだはこう言ってたのに。」とおもわれていることはよくあるだろうな。いやだなあ。ちゃんとぜんぶ有言実行したいのに、ぜんぜんできない。21歳のうちにブータンに行くと言っていたのに結局行かないし、ギター練習すると30回くらい言っているのに、ギターの練習していない。就活のはなしでも、金融とかそういうつまんなそうなのは嫌、半導体売ったりなんてできないとか言いつつ、そういうとこに就職したらうまく理由をつけて、そのむかしの自分を置いてきぼりにしてしまうんだとおもう。どれも自分の頭で考えて自分の口から出た言葉なんだから責任をとりたいとおもうけど、自分は変わっていったり、そのときのちょっとしたかっこつけたいきもちとか雰囲気とかに負けてあれこれ取り繕ってしまったりして、その言葉をかんたんにうらぎってしまう。生きていく上でしょうがないことかもしれないけど、ほんとうにしょうがないことなのかわからない。

こういうことがあって、自分のこととかともだちのことがいやになったときは、トリプルファイヤーの「SEXはダサい」を聴く。

ごめん、そのときはそうおもった〜

そのときおもっただけなんでべつに、責任とれませ〜ん

とふわふわ言ってくれるので、まあいいか、どうでもいいやとおもえて楽になる。今日もお経のようにこの曲を聴いた。

 

よくわからない生きもの

昼休みに、三限の大教室のすみっこでお昼ごはんを食べていたら、ともだちがやってきた。にこにこしながら、「サラダチキンダイエットの効果でてきた」というので、わたしはその子の顔を見て、あ〜たしかにやせた気がする、と言った。そうすると、2キロやせた、このへんがね、と顔のえらあたりをさすりながらまたにこにこして、今度はかばんからコンビニのビニール袋を取り出した。「だから、今日は、これ」と言って、タニタ食堂の100kclデザートカスタードプリンをていねいに机に並べる。その感じがとてもかわいらしくて、わたしもにこにこした。その子は近々、けっこう長くつき合った彼氏と別れるらしいというのを別のともだちから聞いていたので、そのことについて聞こうかなと思ったんだけど、なんとなくやめて、プリンいいな〜と言った。

今日の三限はもうひとり、ともだちが来る。ともだちとかぶっている授業は少ないので授業はだいたいひとりで受けているけど、この授業はいつも三人で受ける。でもなかなかもう一人が来なくて、そういえばきのう彼氏とけんかして、もうやばいかも、みたいなことを相談されたのを思い出した。休むのかなと思っていたら、少し遅れるとラインが来た。授業が始まって20分くらいしたらまたラインが来て、どうしよう、泣いてしまって行けない、泣くだけ泣いてから行く、と言われた。大丈夫かーべつに今日休んでもよさそうだよとか言うと、でも行くもう着く、と言って、5分後くらいに教室に入ってきた。入ってきたとき、口が思いっきり「へ」の字をしていて、かわいくて、笑ってしまいそうになった。

そのあとは四限を受けて帰るつもりでいたけど、その遅れてきた友人が出るというので、五限のあとに一緒に就職ガイダンスを受けることにした。それまでは図書館でぼーっとしたりした。今日は自己分析/適職診断講座で、とても嫌な内容であった。専用のウェブサイトで、いくつかの、そんなの自分で選んだら本当の自分についてじゃなくて理想の自分について答えるでしょっていうような質問に、強くそう思う!どちらかといえばそう思う!とか、どちらかといえばそう思わない!とかをどんどん選んで、診断する!、を押すと、〜あなたはコップから水が溢れ出すように想像力が溢れているタイプです〜とか言ってくるやつをやらされた。そんなのまったく信用できないとおもう。この結果で、あなたは創造的思考力に恵まれています適した業界はマスコミ業界ですとか言われたのを信じ込んで、撃沈する人とかいそうとおもった。性格悪い。でもそんな内容だった。

就職ガイダンスの前に、そのともだちに何も聞かないのも変かなとおもって、(彼氏と)どうなった?と聞いたら、話しだす前に、いまこの話すると泣いちゃうから、と本当に泣く寸前みたいな顔で言われたので、あわててごめんとあやまった。ガイダンスが終わって、そのともだちについて、いつもは使わないひとつ先の駅まで歩いた。その子とは使っている駅がちがうのだけど、今日はその友人のほうの駅を使って帰った。なんとかはげましてあげようとおもって、「サーティーワン食べたい」と言ったら、「うちはアイスいらない」と言われた。じゃあわたしが食べるの見てて、と言ったけど、けっきょくサーティワンには行かなかった。その代わりに、ブックオフに寄った。何冊か買いたい本があったから寄ったんだけどその本はどれもぜんぶなくて、連れてきちゃったのに申し訳ないなとおもっていたら、そのともだちが「いまの気持ちに、合う本を選んで」と言ってきたのでびっくりした。そういわれると、最近読んだ本も今まで読んだ本もどうにも思い出せなくて、しかも目の前には大量の本が並んでいるもんだからよけいにわからなくなった。とりあえず、ぜったいこの中からひとつ選ぼうといって、100円コーナーをぐるぐるした。なんとなく、有名だし読みやすいしおもしろいし元気でるから、とりあえずこれ読みな、と、吉本ばななのキッチンを買わせた。キッチンを読んで、感想やおもうこと、考えたことはいろいろあるけど、まとめるのがむずかしい。最後まで読んで、やっぱり、いちばん大切にしたい人とはつき合うべきなんだな、とおもった。つき合わないのはずるいこと。つき合わなきゃいけない。自分の考え方は間違っていたことに気がついた。でも、気がついても何も変えられないけど。ともだちがレジでお会計をしているとき、ポイントカードをつくっていたのがうれしかった。わたしもつられて、読もうとおもっていた、うたかた/サンクチュアリなど、文庫を三冊買った。ともだちが「わー、本とかはじめて買ったかも……はずかしい」というので、ちゃんと読むんだぞ、と言った。うん帰ったら読む〜と言って、ふたりでブックオフの紺色のビニール袋をふらふらさせながら駅まで歩いた。

昨日、そのともだちに彼氏とのあれこれを相談されたとき、「うちは◯◯(彼氏)のために、細くなってかわいくなっていればそれでいいとおもっていたけど、ちがった」と言っていたのが、とても印象に残っている。今日はすごく、女の子はいいなあ自分は女でよかったなあとおもった一日だった。

 

よわよわのよる

鍵をもっていなくて、おうちに入れない。バイト終わりの23時くらい、家のドアの前でしゃがみこんでためいきをつく。家の中には父親がいたんだけど、ここ一週間くらいどうしても口をききたくなくて、顔を合わせないようにしていたから、かんたんにピンポンを押すことができなかった。母はゴールデンウィークで弟のところへカーテンの裾を直したりしに行っていて、うちにはいなかった。しょうがないので、しばらくドアの前の通路に立って、ぼーっと下を眺める。うちはマンションの5階だから、けっこう高い。ずーっと見ていたら、なにかを落としたくなったけどがまんした。どうしよう、どこか近くのお店に入ろうかとか考えながら、こういうときに、気軽にすぐ会おうと言える地元のともだちがいないことに気がついて、自分はなんてさびしい人間なんだろうと思った。同じマンションには同い年の女の子が4階と7階に住んでいて、幼なじみでなかよくしていたけど、中学校のときわたし以外の2人の仲が悪くなって、自分は間を取り持つ役目になってめんどくさくて、高校は3人ともばらばらになったし、今はもうほとんど会わなくなった。そういえばラインすらも知らない。

その日はそんなにさむくなかったから、このまま朝まで待ってもいいやと思った。トイレもしばらくは大丈夫そうだったし、アイフォンもipodも充電は十分だったし、読みたい本を2冊と手帳をもっていたから。でも冷静になって、あしたもバイトがあること、なによりお父さんと話したくないから家に入らずドアの前で朝を迎えた、というのはとんでもなくばからしいことだよなと思った。もうすぐ22になる21歳のやることではない。それに、朝になったら自動的に鍵が開くわけじゃないし、結局はどうやったってお父さんと顔を合わせないことにはうちには入れない。でもどうしても嫌だ。こんな自分は本当にばかでみっともなくてちっぽけで嫌になる。よわよわである。そんなことを考えていたらどうしようもなくさびしくなって、大学のともだちに電話をした。そうしたら、アイフォンを耳に当てるよりまえに「通話中です」みたいな文字が出てきて、一瞬ではじかれてしまった。すごくかなしかった。ひとりになりたくて人を避けたりつきはなしたりしてしまうときもあるくせに、こういうときはさびしくなって、自分はわがままだ。いろいろなもののツケがまわってきたんだなあと思って、後悔する。

5分後くらいにそのともだちが折り返し電話をくれて、おーいどうした?と言ってくれた。鍵がなくておうち入れない、家誰もいないの?いや、いるんだけど……と事情を説明したら、なにそれ、ふつうに謝って鍵あけてもらえよ(笑)と、ごもっともなことを言ってくれた。じゃあうちに来る?じゃなくて、こう言ってくれるともだちを持ったことをほんとうにうれしく思った。そうだよねありがとう、そうします、おやすみといって電話を切ろうとしたら、ちゃんと家入ったらラインしてね〜って言われて、また泣きそうになった。なんてしっかりしてるんだ、それにくらべて自分はどうしようもなくばかでみっともなくて以下略。1回目、ピンポンしたら反応がなくて、これはもしやお父さん云々のあれじゃなかったのかもしれないと別のレベルで不安になったが、2回目のチャイムで寝ぼけた父親が出てきた。あのね、鍵なくって、とかなんとか言いながら家に入れてもらって、お父さんは寝ぼけてるから、ああとかうんとかだけ言ってまたすぐふとんにもどっていった。リビングに行ったら、インターホンがちかちかしていて、さっきピンポンしたときの自分が映っていた。うつむいて、かなしそうな死にそうな顔をしていてめっちゃおもしろかった。それを笑って元気が出た。

こんなこと、好きな人がいて、その人に話して、なにやってんのばかだなーあほだなーって笑ってもらえればそれでいいのになと思う。

そうすればこんなブログなんて書かなくてすむ。