ぼくらが旅に出る理由

別れるときに、ぜったいにそのかなしさは半分じゃないとおもう。わたしはおばあちゃん家が両方とも離れているから、ちいさいときからそれを実感していた。おばあちゃん家から帰るとき、ぜったいに自分よりもおじいちゃんとおばあちゃんのほうがかなしそうで、同じようにバイバイしているのに不思議だとおもっていた。おばあちゃんたちはいつもわたしたちが来るのをただ待って、帰るときにはおいてかれていく側で、わたしたちよりもすぐに日常がもどってくる。遠くから友人が遊びにきたりしたときは、自分がそのおいていかれる側を体験して、お別れのかなしさを実感した。小学生のときに2回転校したのだけど、友達が転校したときより自分が転校するのはかなしくなかったし、かなしいとか不安よりもむしろわくわくするかんじだった。新学期やクラス替えがすきだったのも、おなじ。慣れた日常にお別れして新しい環境になることに対して、ちいさいときから上手に順応していたのは、そのお別れのおもさの違いをなんとなくわかっていて、自分はその、おいていかれるほうにならないようにならないように生きていたからだとおもう。いまも自分のほうのかなしさが、相手よりも少なくなるように計算してお別れしているとおもう。

旅行がすきなのも、きっとすき勝手に人も、場所も物も、おいていけるから。出発するときは家族や友達、自分の部屋、いやなことも、日常をおいていける。かえるときは、その旅行先の場所、人、ちょっと作られかけた日常をまたおいてくる。単に気分転換とか、そういう意味以上の快感というか安心感というか、なにかそういうものがあるような気がする。むかしの友達とあまり遊ばないのもそういうことなんだとおもう。向こうからおいていかれるのがこわいから、そうされる前に自分からはなれていくほうがいいとおもっているんだろう。自分から人に深入りすることもされることも拒もうとするのも、きっと離れられなくなるのがこわいからで、いつでも逃げられる距離を保っておきたいとおもっているんだろう。でも、なんでそうなったのかはぜんぜんわからない。親からも十分に愛情を注いで育ててもらったとおもうし、友人関係もとくに人並み以上の問題を抱えたことはないようにおもう。でも、わたしは対人関係において病的に臆病なところがあって、べつに人見知りじゃないしコミュニケーション能力がとても低いというわけではないのにどうしてもこわくてできないことがあって、どうしてなのかわからない。たぶんそれが治れば彼氏はできるとおもうんだけど、治らないと結婚とかそういうことがちゃんとできそうにない。そういえばこのあいだこういうことを人に相談したら、過去世になにか問題があったんじゃないかといわれて過去世療法の本を薦められた。

旅行に行って、そこで見たきれいな景色も、たのしかったことも感動したことも、結局すぐにわすれてしまう。ほんの一瞬の行為や体験が、その先の人生を変えるなんてことはないとおもう。結局そんなのは勘違いで、その勘違いができるかできないか、ということだとおもう。わたしはインドに行っても、そこでダライ・ラマの説法を聞いても、ローカルバスで11時間かけて秘境に足を運んでも、チベット僧が淹れてくれた一杯のチャイを飲んでも、なにも変わらなかった。でも、長い目で見たら、なにかこの先に影響を与えてくれることはあったのかもしれない。とりあえずいますぐに分かる変化は、何人かラインの友達がふえたこと、日焼け、ちょっと痩せたこと、おなかがゆるくなったこと、くらい。とくに期待して行かなかったけれど、すこしさみしい。でも、そんな自分でよかった(勘違いできない自分でよかった)とおもうところもある。