女は女である

かわいくなりたいなあとおもう時期。痩せたいとか肌荒れ治したいとかはしょっちゅうおもうけど、かわいくなりたいとか自分をかわいくしたいっていうまっすぐな願望は、ちょっとスパンの長い生理の周期みたいに、たまーにしか来ない。めずらしく今回のはけっこう長続きしている。たとえば、ゾゾタウンでミニスカートを買おうか迷っているところとか(いくつか前の記事でミニスカートなんて一生履かないとおもったこと書いたのに)、髪の毛を切りすぎて男の子みたいになったのを気にして、毎日マスカラをつけてビューラーでくりんとカールまでしているところとか。あと、もっとちゃんとかわいい服を着ようとおもった。大きめのTシャツにデニムとか、膝下丈のスカートとか、シンプルなワンピースとかばかりじゃなくて、もっと、袖がちょっとふりふりしてるノースリーブとか、ぴったあとした体のラインの出るニットとか、若いうちにしか着れないような、女性らしいものを着よ!とおもう。わたしが今着ている服の9割くらいは、妊婦になっても母親になっても着れるのようなものだ。はやく冬にならないかな。寒くなってきたらもこもこのニットを着て、去年買ったハウエルのダッフルを着て、マフラーでぐるぐるにして、ミトンの手袋をして外に出たい。冬になればタイツをはけば良いから、やっぱり迷ってるミニスカートも買おう。髪の毛もそのころにはのびているだろうし。あしたは休みだから、衣替えをして、たまってるアイロンがけを済ませて、ギターの練習をしよう。にきびのくすりがなくなったから皮膚科にも行きたいけど、どうせ行かないだろう。

ネトストの歌

自分は変なことをしているのかもしれないとおもうけど、そういうのってみんながみんな他人に言わないようにしているだけであって、じつはぜんぜん普通のことなんじゃないかともおもう。こっそり自分がやっていることはみんなこっそりやっていることなのか、そうじゃないのか、わからない。そういうことを相談できる相手は限られてくるし、そういう話できる人は自分と似ているからたいてい同意を得られるし、自分が世間一般とどのくらいずれているのか永遠にわからない。そもそも、「自分は変わっている」とおもっている人はその、自分の変わっている部分を大事に甘やかしているからよくないとおもってしまうし、わたしもそういう人間だと誰かにおもわれているとおもうから嫌だ。

かれこれもう5年くらいネトストしている人(女性)がこのあいだ入籍していて、時流れたな〜とおもった。ふつうに一般の人で、会ったこともないし話したこともないけど、もうその人のことならたいがい知っている。通っていた高校も大学も仲の良い友人も旦那さんの顔も元彼の顔も勤めていた会社も知っている。はじめて見つけたとき、ぜっっったいに気があうだろうなあとピーンときて、それからネトストするようになって、その人が読んでいた本は何冊も読んだし、音楽も映画もいくつも真似した。その人のツイッターのお気に入りから自分好みの情報を得ることはもう自分の日課である。服装の好みはちょっと違うんだけど、その人の好きなものはもう熟知しているから誕生日なんかには素敵なプレゼントをあげることができるとおもう。ここまでくると、もうすぐ会うのではないか、とすらおもってしまう。わたしが会社に勤めるようになったら、何かしらの形で会うことがありそうでこわい。向かい合って丁寧に名刺を交換しあったりしそう。もちろん、ちゃんとはじめて会うふりをして、ちゃんと探り探りの会話からはじめて、そういうところはわたしはちゃんと上手に嘘をつけてしまうから、なんでも知らないふりをする。そうやって本当に仲良くなってしまうんじゃないか、でもそんな自分はとてもこわい。ただのストーカーである。そりゃあ5年前から自分のSNSを見漁っている人間とは、話も合うし好みも趣味も合うに決まっている。どんなに仲良くなってもこんな事実を知ったら恐怖を感じるにちがいない。でも、もしかしたらこんなのみんながやっていることで、こうやって人は仲良くなっていて、平然と知らんふりや嘘をついている人はそこらじゅうにいるのかもしれない。わたしのインスタだって、フォローされていないけど毎日見ている人はいるかもしれないし、その人は偶然一度どこかですれ違ったことがある人かもしれないし、一度も会ったことがなくて北海道や沖縄、どこか行ったことのない国に住んでいる人かもしれない。もしかしたらそのわたしのネトストはインスタとタンブラーとこのブログも見つけて全部紐付けして、今日はインスタにこんなふざけた写真をあげた一方で深夜にこんなに重い文章書いている、ってぜんぶばれているかもしれない。わたしのSNSの何かをこっそり見て、わたしがやっているのと同じように音楽や映画や本を真似している人もいるかもしれないし、ぜっっっったいにこの人と気が合う、仲良くなりたいとおもってくれている人もいるのかもしれない。でもそんな他人のことをあれこれ一生懸命見ているのは自分だけで、ふつうの人はこんなことをしていなくて、わたしのことなんて誰も気にかけていないのかもしれない。なんだか、永遠に答えのわからない、箱の中身はなんでしょうをやらされている気分。こうかもしれない、いや違うかも、でもこれがこうだからこうかも、でもこれだってこうだからこうかもしれない、とぐるぐるおわりがない。

こんな文章を書いていて、もしいるのなら、わたしのネトストはびびってしまうかもしれないなあとおもったりした。

22

ひさしぶりにブログをひらいて、人のブログを読んだらじぶんも書きたくなった。わたしは、じぶんのことに関してはなにかマイナスな落ちをつけないと文章が書けないみたいで、たのしいことがつづいたり安定した毎日だと日記やブログが書けないとわかった。たのしいことのほうが簡単に、すぐわすれてしまうからちゃんと残しておきたいとおもうのに、大切にしたいことは人に言うべきじゃないとおもうからか、なにか、言ったり書いたりするとそれこそ思い出がすりへってしまいそうでこわくなる。あいまいな心地よさのままでとっておこうとしてしまう。とはいうものの、べつにさいきん恋人ができたとか毎日ともだちと飲んでたのしいことしかないとかいう日々なわけでもなく、とくに変わりはないけど、なんとなく日記を書こうとおもえなかった。

さいきんはバイトをしてばかりで、あとは弟が帰省しているからひさしぶりに一緒に生活している。きのうの夜、わたしが部屋でギターを練習していて、弟が隣の部屋にいたから、ちょっと弾けるようになったところをさりげなく聴かせようとおもってaikoとかを弾いて、ドアが開いていた弟の部屋をちらっとのぞいたら、おもいっきりイヤホンで音楽を聴いて本を読んでいて、そういえばそういう弟だったわ〜とおもって笑ってしまった。仲が悪いわけではまったくないんだけど、お互いに無干渉な兄弟だった。大学どう?とかそういう会話は一切なくて、カルピス飲む?とか、そういう生活にひつような会話しかしない。

あとこのあいだゼミの合宿に行った。台風のおかげで予定が変更になって、勉強の時間がなくなってただの旅行だった。温泉に入って卓球をして朝まで飲んでさわいで、とてもたのしかった。でも、ふざけて処女コールをされて、そのときは大丈夫だったけど酔いが冷めてきたころにかなしくなった。あと、ほんとうは言いたくなかった話をともだちにされて、そこからよけいなお世話なことをされていやだった。やっぱり大事にしたいことはそうそう人に言うもんじゃないとおもった。話しているときはたのしくても、後々めちゃくちゃ後悔する。ひみつを共有することで得られる一体感なんて一瞬ですぐにこわれるし、他人のことなんて結局どうやっても他人事で、じぶんより大切にできるわけなんてない。こういうことをおもうから、女の子むいてないなあとおもってしまう。わたしは男の子たちの、仲いい同士でもお互いかくれて女の子とあそびにいったり、彼女ができたとかそういう話なんてどうでもいいとおもっている程のところがすごく好きだし、いいなあとおもう。大事なことはじぶんひとりで考えるから、ともだちとはおもいっきりばかなことをしたりさわいだりするほうがいいとおもう。

それから、ともだちが彼氏と別れたり、バイトの先輩が彼氏と別れたり、夏の終わりだなあってかんじ。この時期に別れる人は、季節のせいにできるからちょっとあまえているんじゃないかな。そういえば今年は、お祭りにも海にも川にも行っていないし花火も見ていないしやってもいないし、バーベキューもしていないし君の名はもシンゴジラも見ていないし水着も浴衣も着なかった夏だった。来年は学生最後の夏休みで、23才の夏休みで、きっとおなじようにおわっていくんだろうけど、最後だーとかぎゃーぎゃー騒ぐんだろうな。神聖かまってちゃんの23才の夏休みを聴きながら、もう来年の夏のことをかんがえた。

ぼくらが旅に出る理由

別れるときに、ぜったいにそのかなしさは半分じゃないとおもう。わたしはおばあちゃん家が両方とも離れているから、ちいさいときからそれを実感していた。おばあちゃん家から帰るとき、ぜったいに自分よりもおじいちゃんとおばあちゃんのほうがかなしそうで、同じようにバイバイしているのに不思議だとおもっていた。おばあちゃんたちはいつもわたしたちが来るのをただ待って、帰るときにはおいてかれていく側で、わたしたちよりもすぐに日常がもどってくる。遠くから友人が遊びにきたりしたときは、自分がそのおいていかれる側を体験して、お別れのかなしさを実感した。小学生のときに2回転校したのだけど、友達が転校したときより自分が転校するのはかなしくなかったし、かなしいとか不安よりもむしろわくわくするかんじだった。新学期やクラス替えがすきだったのも、おなじ。慣れた日常にお別れして新しい環境になることに対して、ちいさいときから上手に順応していたのは、そのお別れのおもさの違いをなんとなくわかっていて、自分はその、おいていかれるほうにならないようにならないように生きていたからだとおもう。いまも自分のほうのかなしさが、相手よりも少なくなるように計算してお別れしているとおもう。

旅行がすきなのも、きっとすき勝手に人も、場所も物も、おいていけるから。出発するときは家族や友達、自分の部屋、いやなことも、日常をおいていける。かえるときは、その旅行先の場所、人、ちょっと作られかけた日常をまたおいてくる。単に気分転換とか、そういう意味以上の快感というか安心感というか、なにかそういうものがあるような気がする。むかしの友達とあまり遊ばないのもそういうことなんだとおもう。向こうからおいていかれるのがこわいから、そうされる前に自分からはなれていくほうがいいとおもっているんだろう。自分から人に深入りすることもされることも拒もうとするのも、きっと離れられなくなるのがこわいからで、いつでも逃げられる距離を保っておきたいとおもっているんだろう。でも、なんでそうなったのかはぜんぜんわからない。親からも十分に愛情を注いで育ててもらったとおもうし、友人関係もとくに人並み以上の問題を抱えたことはないようにおもう。でも、わたしは対人関係において病的に臆病なところがあって、べつに人見知りじゃないしコミュニケーション能力がとても低いというわけではないのにどうしてもこわくてできないことがあって、どうしてなのかわからない。たぶんそれが治れば彼氏はできるとおもうんだけど、治らないと結婚とかそういうことがちゃんとできそうにない。そういえばこのあいだこういうことを人に相談したら、過去世になにか問題があったんじゃないかといわれて過去世療法の本を薦められた。

旅行に行って、そこで見たきれいな景色も、たのしかったことも感動したことも、結局すぐにわすれてしまう。ほんの一瞬の行為や体験が、その先の人生を変えるなんてことはないとおもう。結局そんなのは勘違いで、その勘違いができるかできないか、ということだとおもう。わたしはインドに行っても、そこでダライ・ラマの説法を聞いても、ローカルバスで11時間かけて秘境に足を運んでも、チベット僧が淹れてくれた一杯のチャイを飲んでも、なにも変わらなかった。でも、長い目で見たら、なにかこの先に影響を与えてくれることはあったのかもしれない。とりあえずいますぐに分かる変化は、何人かラインの友達がふえたこと、日焼け、ちょっと痩せたこと、おなかがゆるくなったこと、くらい。とくに期待して行かなかったけれど、すこしさみしい。でも、そんな自分でよかった(勘違いできない自分でよかった)とおもうところもある。

栄養ドリンクの引きよせ

まさに夏休み一日目、という天気。いやなテストやらレポートやらがおわったからか、空もきれいにみえる。暑いけど、それがたのしいくらい。

教習所にむかう途中の送迎バスで、運転手のおじさんがリポビタンDをくれた。いきなり、「リポビタンD飲む?」と聞かれたのでびっくりした。乗っているのがわたしひとりだったからサービスなのか、もしかしたら、わたしがとても、これから運転なんてできないようなくらいつかれているように見えたのかもしれない。今日は高速教習なので助かります、と言ってありがたく受け取ると、運転手のおじさんはいろいろと話しかけてきた。「きみ、ポケモンGOやってる?」と聞かれたので、やっていません。と言うと「きみ、いいね〜!」とほめられた。あと、「暑いのと寒いのどっちが得意?」と聞かれたので「ん〜、さむいのです」と言ったら、だよね!とルームミラーごしにグーをされた。そうしたら「きみ、O型?」と聞かれた。わたしはざんねんながら、B型だった。

高速教習は、教官一人とわたしのほかにあと二人生徒が同乗して、三時間、交代交代に運転する。待合室に中学の同級生男子がいて、一緒だったらいやだな……とずっとどきどきしていた。一緒じゃありませんようにと願っていたら、ちがったので安心した。でもなんと、一人は同じ中学に通っていた同い年の女の子だった。部活もちがったし、クラスも同じになったことがないけど話したことはあるくらいの子で、でもなぜか、わたしは中学の同級生に会ってもしらんふりしてにげることが多いけど、その子は自分から話しかけたくなる子だった。浪人していた時も一度電車であったことがあって、その子も浪人していて、たしか医学部を目指していたんだったとおもって聞いたら、今年やっと受かって、いま一年生だということだった。もう一人は同い年くらいの感じのよさそうな男の子で、シンプルな服装にまだ紐が白くきれいに反射した紺色のニューバランスを履いていた。教官も、もうなんどもお世話になっている人だったので、とても当たりだとおもった。最初はその男の子が運転することになって、わたしと友達はうしろにすわった。わたしたちがたのしそうに話すのを見て、教官が男の子を気の毒におもったのか、名簿を見て「◯◯くんも、△△らへんに住んでいるんだね〜」というので、「どこ中ですか?」と聞いたら隣の中学だった。つづいて、「いまいくつですか?」と聞いたら「今年ではたちで、いま大学2年です。」というので「じゃあわたしたちのほうが2つ上でした。」と言ったら、まさかの年上ですか、と驚いていた。わたしも背が小さいし、友達も私より背が小さいので、お姉さんには見えないようだった。そんなかんじでなかよくなって、もはや教習というよりドライブだった。休憩のサービスエリアでは三人でお茶をしたし、一人が運転している時は、うしろの二人でずっと話していた。運転のこと以外にも、その男の子の妹がわたしの出身高校にいま通っていたり、共通の友人がいたり、話すことは無理しなくてもあった。三時間のあいだで、お互い通っている大学も教えたし、アルバイト先も教えたし、夏休みの予定も話した。ほんとうにとてもたのしくて、たぶんほかの二人もすごくたのしかったとおもう。それでも、車から降りてロビーについたら「おつかれさまでした。」といって、一瞬でばらばらになった。もったいない気もするけど、すぐばらばらになるからこそちょうどよくたのしかったような気もする。わたしはたぶんこういうのが好きなんだとおもう。これからしばらく旅行に行ってしまって教習所に行けないので、きっとそのあいだに二人は通いおわるだろうから、もう会うことはないだろう。でも、もしもう一回会ったら、自分から話しかけたくなる人たちだった。

帰りのバスに乗ると、運転手は行きと同じおじさんで、高速どうだった?と聞いてくる。「リポビタンDのおかげで、とてもたのしかったです。」とお礼を言った。リポビタンDのパワーはすごいなあとおもった。元気のでない日は、レッドブルよりもこれを飲むようにしようとおもった。

風街で風待ち

さいきんは、いちにちに色んなことをする日ばかり。今日はともだちと会って、美容院に行って、教習所に行った。それぞれの約束のあいだにすこし時間があいてしまって、本屋で立ち読みしたり、わざと電車を遠回りしたりしたのでつかれた。

松本隆の小説をよんだ。とてもとてもとても好きだった。こんなに自分の好みにばっちりあてはまって、はっぴいえんどとかをいいとおもうことをあたりまえだなとおもった。ほんとうに何もかもすてきだなあ。今日の天気は、油断したら雨がふり出しそうな、でも台風が過ぎさったあとのようでもあるくもり空で、風をあつめてがよく合う日だった。

 

はっぴいえんどをはじめて聴いたのは、中学生のころ、深夜ラジオでだった。ゲストでよばれたまだ無名のバンドの、日本語ロックの原点から聴き直そうとおもって聴いています、という前振りにつづいて、はっぴいえんどの風をあつめてがかかった。深夜にマンションの小さな部屋で聴くはっぴいえんどは、女子中学生にはまだはやかったんだとおもう、そのときはあまり良さがわからなかった。中学生のときは、みんなと一緒にグリーーーンとか嵐とかを聴いていて、両親が車でかける、聖子ちゃんやユーミン山下達郎カーペンターズなどを「親が好き」という理由だけで毛嫌いしていた。たぶん、はっぴいえんどもそのラインだな〜とおもったのだろう。でも、いまになってもこうやってはっきりおぼえているんだから、何かしら感じるものがあったんだとおもうし、そうおもいたい。

つぎに聴いたのは、高校生のころだった。読んでいたファッション雑誌(いまはもう廃刊になってしまった)で、菊池亜希子がipodで再生回数がいちばん多い曲として風をあつめてをあげていて、YouTubeで検索して聴いた。高校生のころは、ひっしにロキノン系のバンドを聴いていて、だれよりもはやく無名のバンドを見つけだすことに精を出していた。世界中で鳴り響くすべての音楽を聴いてやるぞぐらいの勢いがあって、毎週毎週ツタヤにかよい、すこしでも目に入ったり聞いたりしたものはすぐに調べてツタヤで借りるリストに入れたり、CDを買いに行ったりした。はっぴいえんどもそのひとつだった。

浪人してたころはあまりあたらしいものには触れなかった。大森靖子くらい。ラジオかYouTubeで聴いて衝撃をうけて、次の日CDを買いにいったのが忘れられない。あとはYUKIとかcharaとかばかり聴いていた。

大学生になって、さいきんはあまりラジオを聴かなくなって、ツタヤにもそんなに行かなくなった。逆に、両親が昔買って家にあるCDがちょうど聴きたかったやつだったり、好きでよく聴いている曲を、好きな芸能人やアーティストが紹介していたりする。遠回りしたけど、ゴールした?かんじがある。

いまはちまたで、シティポップが流行しているようだ。cero、ヨギー、ネバヤンなどなどわたしも好きでよく聴くけれど、ほんとうに好きなのか、それはただ流行に乗っているだけなのか……と考えてしまう。なんか、このジャンルを聴いていることがオシャレの一部であるような、そういうステータスがある気がしなくもないし。このあいだ調べたけど、シティポップは流行の30年周期にあてはまっているみたいで、流行るのがあたりまえなのか〜と時代のくりかえし感を見た。女の人のまゆ毛が太くなったり細くなったりするやつと一緒なのか。そう思うとしらないだれかに操作されているかんじがして、いやだなあとおもった。あと5年くらいしてもこういう音楽が好きだったら、ほんものだな。経過をみるひつようがある。そのころにはジャズとかクラシックを本格的に聴きだして、ポップ・ロックなんてねぇ……みたいなこと言ってたりしたらそれはそれでおもしろいなともおもうけど。

言いたいことやしってほしいことをつめこみ、書きだすと、はじまりとおわりがつながらなさそうで、とちゅうがしんどくなる。もっと短いことばで、わかるようなわからないような、そういうのが書きたいのに、へたくそだ。手帳に書いている日記も、その日のこと1から10まで書くことが大事だとおもっていて、そういうふうに書いているけど、そんな日記はむだにおもえてくる。このあいだ、電車でなにもすることがなかったから、4月5月あたりの日記を読んでいたのだけど、ただただはずかしくなっただけでなんにもおもしろくなかった。どんなきもちも、わすれないように残しておきたいとおもってよくばって書いているのに、空っぽなかんじがした。いまの生活は、すきに夜ふかしもして、すきな友人とだけつるんで、お金もすきなことだけにつかって、とてもたのしいけど、それだけといったらそれだけ。きゅうにこわくなった。