変わらないまま

片方が変わらないものであるなら、もう片方は変わっていくものか、もしくは、もう変わってしまったものになる。とくに、片方が男で、もう片方が女だったら、そうだと思う。

変わらない、っていうのは、過去を基準にしてそれと比べて変わったとか変わってないとか言っているように思えるけど、ほんとうはそうじゃなくて、自分と比べているんだと思う。自分との距離感が、変わらないのか変わったのかということで、なんか変わったね〜って言われても、それはその人が昔と変わったんじゃなくて、自分とその人との間に、昔と違う感じがあるということになる。だから、それだけではほんとうに変わったのはどっちなのかわからないと思う。

 

ラ・ラ・ランド」はヒロインのミアが変わっていくほうなら、セバスチャンは変わらないほう。「カルテット」では松たか子が変わったほうで、クドカンが変わらなかったほう。「ニュー・シネマパラダイス」は主人公の男の子が変わっていくほうなら、ヒロインが変わらないほう。「さくらの唄」も主人公の一ノ瀬利彦が変わっていくほうなら、仲村真理が変わらないほう。「ニキの屈辱」は加賀美くんが変わっていくほうなら、ニキちゃんが変わらないほう。「うみべの女の子」は磯部が変わっていくほうなら、小梅ちゃんが変わらないほう。

 

「ニュー・シネマパラダイス」と「さくらの唄」は、それぞれが大人になって立派になったとき、変わらないもの、の対象であるヒロインと自分との間にできてしまった距離感に気づいて、自分の大切にしていたものがわからなくなってしまう、もう取り戻すことのできない、忘れていたものを思い出してしまう、そういう切なさが描かれている。

「ニキの屈辱」と「うみべの女の子」も、女の子のほうが変わらない話だけど、ここで描かれているのは、置いていかれる方の悲しさであるからまたちょっとちがう。

 

置いていかれることは、きっとどんなことであれ、誰でもいい気持ちはしないと思う。だから、変わりそうのないもの、の対象を見つけて、安心しようとする。それで結局、その変わらないはずのものが変わったら、あいつも変わっちゃったな〜とか、ここもああなったか〜って、勝手に文句を言って、悲しくなっている。変わった変わらないの基準は、自分の中にあるんだから、変わったほうは、多分そんなに悪くない気がする。それに、その変わらないものがずっとそのままでいたとしても、それに対して変わった分の自分を振り返って悲しくなるんだから、意味がない。

 

 

書いているうちによくわからなくなったけど、とりあえず今日ラ・ラ・ランドを見た。